湯本館
川端康成
大正14年(1925年)に湯本館に逗留した作家の川端康成(当時26歳くらい)は、王仁三郎と会う機会はなかったが、澄子や直日を湯本館で見かけたことがあり、次のように評している。
(略)
二三年前のこと、大本教の出口王仁三郎が湯本館に滞在していた。湯本館の主人が大本教信者である。不思議や、小山から一条の湯気が立ち昇った。湯本館からそれを見た王仁三郎は、金が出るのだ、神のお告げだ、と言った。綾部から信者が来てその山の採掘をはじめた。
去年の四月には四五十人も信者がこの小さい山村に入り込んでいた。大本教の青年が隊を組んで晴やかに山道を歩いていた。皆感じのいい人達であった。その家族の半ば都会風な五六人の娘達と、私は毎日湯船で一しょになった。
殆ど言葉を交えたこともないのだが、その娘たちは二三人、私が立つ時に自動車まで見送るともなく見送ってくれた。
金は出なかった。夏行ってみると、もう廃坑の中は土が崩れ落ちていた。
しかし、湯ヶ島のたいていの山は金山たとして、久原[※日産の前身の久原鉱業のこと。]などがその採掘権を持っている。
王仁三郎は見なかったが、大本教二代目教祖出口澄子とその娘の三代さんが湯本館に来た時には、私もそこにいた。二三年前の夏だった。
澄子が湯に入るところを見た。不恰好にだぶだぶ太ったからだだ。貧しい髪をちょこんと結び、下品な顔をして、田舎の駄菓子屋の婆さんのようだ。湯から上ると縁側に太い足を投げ出して、煙管で煙草を吸っていた。これが、とにかく一宗の教祖だというのだから不思議な気がした。三代さんは二十前後の娘だが、少しも色気がなく疲れている。
私は大本教は好きでないが、その祝詞は好きだ。それを聞くのも好きだし、それに現れた太古の純日本的な思想も好きだ。しかし、この頃ではこの祝詞も湯本館で殆ど聞かない。
大本教では、湯ヶ島が聖地だということになっている。
川端康成が初めて伊豆を訪れたのは一高生になって一年後の大正7年(1918年)である。大正14年(1925年)には湯ヶ島温泉一年の過半を過ごした。湯本館の女将・安藤かねに、わが子同然に可愛がられていた。[1]
外部リンク
- 川端の宿 湯本館(公式サイト)
- 湯ヶ島温泉 - ウィキペディア
脚注
- ↑ 前掲『伊豆の旅』巻末の「文庫新版によせて」(川端香男里・著)p311