伯耆大山
霊界物語の伯耆大山
- 初出:第39巻総説#
- 霊界物語に伯耆大山が出て来るのはあまり多くない。ほとんどは単なる「大山」と呼ばれ、「伯耆大山」という言葉そのものが出て来るのは1ヶ所だけである。[1]
- 伯耆大山とは「簸の川上(日の川上)」という意味である。[2]
霊界物語の最後の舞台
霊界物語で伯耆大山が舞台となることはないが、将来は舞台として登場する予定であった。
第39巻から続く大黒主調伏の物語の最後の舞台となる予定であることが、霊界物語の中で語られている。三五教の宣伝使たちが言向け和そうとすると、大黒主は月の国ハルナの都から海を越えてオノコロ島に渡り、伯耆大山に姿を隠した。そこへ神素盞嗚大神が数多の天使や宣伝使を率いて現れ、(八岐大蛇が憑依した)大黒主を言向け和し、天叢雲剣を獲て、高天原の天照大御神に献上する…という結末になることが予告されている(下の引用文参照)。
霊界物語第1巻の冒頭で、霊界物語は神素盞嗚大神が八岐大蛇を寸断し叢雲宝剣を天祖に奉る物語だと宣言されているので(次の引用文参照)、伯耆大山が邪神・邪霊との最後の決戦地であると考えられる。
しかし実際には宣伝使たちはハルナの都まで辿り着かずに第72巻で終わっており、結末が描かれずに「未完」の状態である。霊界物語は120巻まで書く予定で著述が進められていたが[3]、天祥地瑞を除き、残りの30~40巻が書かれていたら、最後の方で伯耆大山が舞台として登場していたと考えられる。
霊界物語の口述地
王仁三郎は大正12年(1923年)3月20日から4月9日まで、大山の麓にある皆生温泉・浜屋旅館(鳥取県米子市)に滞在し、第57巻から第60巻の半ば(第11章)まで口述した。
次の引用文からも分かるように、旅館から大山がよく見えていた。
現実の伯耆大山
伯耆大山は鳥取県にある火山で、標高1,729m。中国地方の最高峰で、鳥取県のシンボル的な山。
伯耆国にある大山なので伯耆大山と呼ばれるが、通常は単に「大山」と呼ばれる。
修験道の山で、山腹には天台宗の「大山寺(だいせんじ)」がある。また、大国主を祭る「大神山(おおがみやま)神社」の奥宮が山腹に、本社が山麓にある。
八岐大蛇を退治した山
記紀神話で素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した場所は、出雲の肥の河上の鳥髪(とりかみ)という地で、一般にその場所は「船通山(せんつうざん)」の麓であるとされる。船通山は鳥取県日南町と島根県奥出雲町との県境にあり、標高1,142m。古来より「鳥上山(鳥髪山)」とか「鳥上峰(鳥髪峰)」と呼ばれている。
しかし王仁三郎は、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した場所は、伯耆大山であると言う(下の引用文及び前述の「霊界物語の最後の舞台」の項を参照)。またそのとき神庭会議を開いた場所が神刕別院がある地であるという[4]。
日本大地の要
王仁三郎は、大山は「日本大地の要」だと言っている。また「一番高い」とも述べている。
大山農場
脚注
- ↑ 第59巻序#:「日本最初の山嶺と称へられたる伯耆大山は」
- ↑ 第39巻総説#:(出雲の簸の川上について)「肥の川上といふ言義は日の側陽陰といふことで、朝日の直刺す夕日の日照らす、山の意義であつて、出雲とは雲の発生する高山の意義で今日の伯耆の大山を指したものである」、月鏡「十和田湖の神秘」#:「神代の昔神素盞嗚尊が伯耆大山即ち日の川上山に於て八岐の大蛇を退治され」
- ↑ 第1巻附記 霊界物語について#:「霊界物語は総計壱百二十巻をもつて完成する予定になつてをります」、第37巻序#:「神命に依れば(略)一千七百二十八巻を要し(略)神界へ御願致して可成十輯位にし百二十巻位にて神示の大要を口述して見たいと思ひます」、第73巻序文#:「加藤明子の筆録を以て七十二巻の終りを告げたるが、その後予定の百二十巻を口述せむと思ひつつ、天恩郷の開設等にて寸暇なく、今日に及べり」
- ↑ 『大本七十年史 下巻』聖師巡教の旅へ#:「昭和三年の一二月一五日、聖師は二代教主とともに鳥取県の西伯郡日吉津村の神刕別院の開院式にのぞんだ。(略)このとき聖師によってこの地の由来がとかれ、「素盞嗚尊が八岐の大蛇を退治したと言はれるのは大山のことであり、この別院のある地がそのとき神庭会議を開いた因縁の地である」と語っている」
関連項目
- 高麗山 - 大山の北西にある大山山系の山。孝霊山の別名。
外部リンク
- 大山 (鳥取県) - ウィキペディア
- 船通山 - ウィキペディア
- 大山寺 - ウィキペディア /大山寺公式サイト
- 大神山神社 - ウィキペディア /大神山神社公式サイト
- 皆生温泉 - ウィキペディア
- 皆生温泉最古のお風呂 - 海潮園(旧称・浜屋旅館)の女将のブログ。王仁三郎が滞在したことに触れている。