開化天皇
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概要
- 誕生:皇紀453年(孝元天皇7年)
- 即位:皇紀504年(開化天皇元年)
- 退位・崩御:皇紀563年(開化天皇60年)4月9日、享年115歳
- 皇居:春日率川宮(かすがのいざかわのみや)…現・奈良市本子守町の率川(いさがわ)神社がその跡地だと言われている。
- 御陵:春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)…現・奈良市油阪町にある。学術上の遺跡名は「念仏寺山(ねんぶつじやま)古墳」。
- 闕史八代の天皇なので、記紀に特別な事蹟は記されていない。
- 「開化天皇」という名は記紀編纂後(8世紀後半)に作られた名前である。日本書紀では「稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)」、古事記では「若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)」と呼ばれている。
- 開化天皇は穴太の産土・小幡神社の祭神である。開化天皇を祭る神社は珍しい。小幡神社以外に次の神社が開化天皇を祭っている。
王仁三郎との関係
- 上古は、王仁三郎が霊的修業を行った高熊山の山中に、開化天皇を祭る小幡神社があった。[1]
- 王仁三郎は高熊山修業の際に、霊界で、開化天皇の神霊に導かれたことが霊界物語に書かれている。「開化天皇」とは書かれていないが、「小幡神社の大神」「産土の神様」「産土神」「産土の神」[2]、「小幡大明神」「小幡明神」[3]等と呼ばれている。
- 霊界物語第19巻第1章「高熊山」#で「小幡大明神」(つまり開化天皇の神霊)が王仁三郎に、「天津神国津神の依さしのまにまに(略)三十五年の昔より、木の花姫と語らひて、汝が御霊を拝領し、我が氏の子として生れ出でしめたり」と語っている。また伊都能売神諭 大正8年1月2日#に「艮の金神変性男子の御霊が(略)小幡神社の御主神、開化天皇の御引合はせに由り、氏子の中の変性女子の御魂を申受けて」と記されている。つまり開化天皇の神霊の計らいによって王仁三郎が穴太に生まれたということになる。
- 王仁三郎は開化天皇の名前「稚日本根子彦大日日命」は「若き日本の根本の神様」という意味であり、「世界を統一される神様」だと教えている。また言霊学で解釈すると「新の日本国建設大本皇威発揚」という意味になると教えている。[5] [6]
- 王仁三郎は「開化天皇の宣伝歌」だという自作の和歌「若人の奮ひたつべき時は来ぬ若き日本の春は近めり」(昭和6年12月発表)に曲を付けさせて昭和青年会の会歌にした。[5] →「昭和青年会会歌」
- 自分は「開化天皇の御神業をやっている」のだと語っている。[5]
- 「開化天皇は朝鮮、満洲、支那、蒙古、マレーまで行幸になったのである。王仁は今は開化天皇の仕事をやっているのである」とも語っている。[5]
出口家との関係
王仁三郎が書いた『大本教開祖御伝記』によると出口家の遠祖は開化天皇の孫であり、四道将軍[7]の一人である丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)[8]である。つまり出口家は開化天皇にルーツがあるということになる。
丹波道主命は丹波に派遣され、何鹿に住み着いた。その子孫の綾津彦命が綾部に住み、豊受大神を祭った。それが後に久次に遷って比沼麻奈為神社となり、さらに伊勢に遷った。
出口家の遠祖は丹波道主命《たんばみちぬしのみこと》に出づ。命は開化天皇の妃 田庭竹野姫《たにはたけのひめ》の子 彦由牟須美命《ひこゆむすみのみこと》の裔なり[9]。道主命は(略)祖先の出産地[10]たる縁故を以て、天皇の特旨に依り丹波に派遣されたるが、命の教化の力能く功を奏し、終に丹波の何鹿の里に居を構へ威望四隣を圧したりしが、命の後裔なる綾津彦命《あやつひこのみこと》は綾部の郷 神戸《かんべ》の地を卜して永住し、豊受大神を奉祀し居たりしに(略)
→「比沼麻奈為神社#元の鎮座地は本宮山」にも関連情報あり。
外部リンク
- 開化天皇 - コトバンク 、開化天皇 - ウィキペディア
- 率川神社 - ウィキペディア
- 率川神社(公式サイト):主祭神は媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)(神武天皇の皇后)。推古天皇元年(593年)に創建された奈良市最古の神社。
- 念仏寺山古墳 - ウィキペディア :開化天皇陵。
脚注
- ↑ 第1巻第1章「霊山修業」#
- ↑ 第1巻第6章「八衢の光景」#、第1巻幽庁の審判#、第1巻天使の来迎#、第1巻神界旅行(三)#、第1巻盲目の神使#
- ↑ 第19巻第1章「高熊山」#
- ↑ 出口恒『誰も知らなかった日本史』参照
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 『新月の光』「開化天皇の御神業」(昭和17年10月12日の発言):「穴太の産土様は稚日本根子彦大日日命である。若き日本の根本の神様ということだから開化天皇はおくり名である。世界を統一される神様である。王仁は今は開化天皇の御神業をやっているのである。それだから開化天皇の宣伝歌「若人の奮ひたつべき時は来ぬ若き日本の春は近めり」(昭和青年会会歌となる)を日本中歌って廻らしたのである。日本は古いけれども若い国である。(略)開化天皇は朝鮮、満洲、支那、蒙古、マレーまで行幸になったのである。王仁は今は開化天皇の仕事をやっているのである。」
- ↑ 『神霊界』大正8年(1919年)12月1日号「随筆」24頁:「△新十一月十八日、丹波南桑田郡曽我部村大字穴太の産土小幡神社へ一行と共に参拝し、神饌並に玉串を奉献しました。抑も当社の祭神は開化天皇様で、延喜式内の旧い由縁の在る御宮で、屋根には十六の菊の御紋と、三ツ巴の紋が附けてありますが、私が去る明治三十一年二月帰神状態に成つた時、大心願を籠めて置いた神様であります。神名は稚日本根子彦大日日命様で、此御神名を日本言霊学の上から奉釈すると、新の日本国建設大本皇威発揚の神言霊と曰ふ事に成ります。私が此神様の氏子と生れ、綾部の地の高天原へ参上り、五六七神政成就の御用を勤めさして頂いて居るのも、決して偶然では無いと曰ふ事が、首肯されるので在ります。」
- ↑ 崇神天皇10年9月9日、北陸に大彦命(おおびこのみこと)を、東海に武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)を、西道に吉備津彦命(きびつひこのみこと)を、丹波(後の丹波・丹後・但馬の三国)に丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)を派遣した。「四道将軍」は日本書紀だけに記されている。古事記では西道以外の三道だけ記載があり、丹波道主命ではなく、その父の日子坐王(ひこいますのみこ)を丹波に派遣したと記されている。
- ↑ 日本書紀では丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)だが、古事記では丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばひこ たたすみちの うしのみこ)と呼ばれている。いずれも開化天皇の皇子・彦坐王(ひこいますのみこ)(古事記では日子坐王)が父。
- ↑ 日本書紀では開化天皇と妃・姥津媛(ははつひめ)との皇子・彦坐王の子が丹波道主命。古事記ではやはり日子坐王(彦坐王)の子が丹波道主命だが、丹波に派遣されたのは父の日子坐王。王仁三郎の言説だと派遣されたのは丹波道主命で、その父は彦由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)であり、記紀いずれの伝承とも異なる。
- ↑ 「祖先の出産地」とは丹波道主命の祖母(開化天皇の妃)田庭竹野姫が丹波出身という意味だと思われる。