大正日日新聞社
大正日日新聞社(たいしょうにちにちしんぶんしゃ)は、大正9年から11年にかけて大本が経営していた新聞社。もともとは日刊の一般紙を発行していた会社を大本が買収し、大本の主張を載せる新聞になった。
目次
概要
略史
大正8年(1919年)11月25日、大阪・梅田で大正日日新聞社が創立された。前年(大正7年)の白虹事件(はっこうじけん、大阪朝日新聞の記事に不穏当な表現があったことによる言論弾圧事件)によって大阪朝日を退社した人たちが、勝本忠兵衛(大阪の商人で鉄成金)の出資で創立したもので、大阪朝日を退社した鳥居素川(とりい そせん)を主筆兼編集局長とし、大阪朝日の退社組を始め当時一流のジャーナリストたちが参加した。社長は貴族院議員の藤村義朗で、資本金は200万円[2]で、大阪朝日新聞や大阪毎日新聞と肩を並べうるほどの新聞であった(当時の朝日の資本金は150万円)。[3]
しかし朝日・毎日の販売網を破ることが出来ず、経営難に陥り、一年足らずで身売りをする羽目になった。大本に買収の話が持ち込まれ、大正9年(1920年)7月中旬から交渉が行われた。8月5日に亀岡で買収の仮契約が、8月14日に本契約が取り交わされた。買収金額は表面的には35万円とされたが、実際には50万円が支払われた。[3]
最初の主な人事は、社主・出口王仁三郎、社長・浅野和三郎、編集局長・岩田久太郎、編集顧問・鳥居素川などであった。信者ではない旧社員と、信者との混成であったため、意見の対立が絶えず、軋轢が生じたものの、9月25日に復刊第一号を発行。発行部数は48万部だった。[3] (ちなみに大阪毎日新聞の大正10年元日時点での発行部数は約69万部[4]、大阪朝日新聞の大正10年上半期の平均実売部数は約48万部である[5]。)
紙面は、大本神諭の予言と警告を時事問題と付き合わせて一般の人々にも理解しやすく解説し、立替え立直しの神意を伝え、社会の革正を促そうという主張が内包されていた。[6]
ライバル各紙や当局の圧力があったものの、社長の浅野和三郎はあくまでも大正10年に大峠が起きるという主張(大正十年立替説)を変えず、その論調が大本的色彩が濃くなるにつれて一般の購読者が減少し、復刊から三ヵ月後には発行部数が20万部に減少した。また70人ほどいた旧社員が他社に引き抜かれわずか10数人となる。[6] [7]
経営が苦しくなり、大正10年(1921年)1月13日[8]、浅野和三郎は退陣し、出口王仁三郎が社長に就任して陣頭指揮にあたったが、挽回は容易ではなかった。[7]
その一ヶ月後、2月12日、大本事件が勃発し、王仁三郎は社長室から拘引されてしまう。だがその後も大正日日新聞の発行は続けられた。[9]
当初は当局により報道管制が敷かれ大本事件に関する報道は禁じられていたが、5月10日に解禁になると全国の新聞は一斉に大本批判を繰り広げ、大本は陰謀団、妖教、国賊との汚名が広がる。これに対して大正日日新聞は当局の不法をなじり、事件を法難とし、大本擁護の論陣を張った。[9]
5月25日、王仁三郎は社長を退任し、上滝七五郎が就任した。しかし社会の誤解は拭えず、また当局の圧迫が増して経営はいよいよ困難となり、7月21日には高木鉄男が社長となる。8月3日には本社を梅田から淀川の河畔の天満筋四丁目に移転。11月24日には御田村竜吉が社長となる。そしてついに大正11年7月15日、大正日日新聞社は床次正広(政治家の床次竹二郎の弟)に譲られ、大本との関係が絶たれた。[9] [10] [11] [12]
しかし多額の債務が残った。社債49万9400円と借入金13万9619円である。大正10年(1921年)11月の会議の報告によると、本部の毎月の経常費は一ヶ月平均、支出が5310円、支出が2120円で、毎月3190円の赤字を出していた。そのような状況下での債務返済は困難であり、債権者から提訴され、聖地の土地・建物の差し押さえの危機にも遭ったが、信者の献金や出口家の財産の処分などで、巨額の債務問題は何とか落着した。[13]
新聞発行の神示
大失敗
王仁三郎は大正日日新聞社の買収と経営は大失敗だったと述べている。
脚注
- ↑ 『大本大阪本苑八十年誌』p49
- ↑ 大正9年(1920年)と平成27年(2015年)の貨幣価値を米価で計算すると現在は当時の約1000倍、大卒初任給は約5000倍なので、当時の200万円は現在の20億~100億円くらいか?
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 『大本七十年史 上巻』「日刊新聞の経営#」
- ↑ 小野秀雄・著『大阪毎日新聞社史』(大正14年4月、大阪毎日新聞社・東京日日新聞社)p140~141(NDLDC)には大阪毎日新聞の大正3年から13年までの元旦号の発行部数が掲載されている。それによると大正8年は513,414部、9年は602,408部、10年は686,539部、11年は824,941部である。
- ↑ 山本武利『近代日本の新聞読者層』(1981年、法政大学出版局)p410~411の「別表4 『朝日新聞』の発行部数(1日)」による。勘定報告書(営業報告書)の決算上半期の平均実売部数で、大正8年は384,242部、9年は396,501部、10年は483,557部、11年は584,222部である。
- ↑ 6.0 6.1 『大本七十年史 上巻』「新聞の論調#」
- ↑ 7.0 7.1 『大本七十年史 上巻』「新聞と信者の立場#」
- ↑ 『大本年表』では1月13日。『大本七十年史』では王仁三郎は「一二日から、本社の社長室に起居して、その陣頭指揮にあたった」と書いてある。
- ↑ 9.0 9.1 9.2 『大本七十年史 上巻』「抵抗と閉社#」
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「文書宣伝#」には異なることが書いてある。大正日日新聞社を「聖師は一九二三(大正一二)年三月一日一切の権限を池沢原治郎に委任した。池沢は「大正日日新聞」の名義および設備・備品等の使用料を納めることなどの契約で米田誠夫に貸した。米田は大正一二年三月二八日より同紙を発行していたが契約を履行しなかったため、昭和七年二月に上野音次郎が委任をうけ、池沢への委任を解いた。上野は昭和七年四月一日、「大正日日新聞」の休刊の手続をとり、あらためて復刊する準備をすすめた。」(この池沢原治郎は大正10年8月に「大正日日新聞社編輯長」の肩書きで『飽まで天下と戦はむ』という本を大正日日新聞社から出している。国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 床次正広は後に大本に入信した。出口京太郎『巨人出口王仁三郎』p220
- ↑ 霊界物語第33巻第16章「暗夜の歌」#(大正11年8月28日口述)の章末に「本日大正日々新聞社長 床次正広氏湯ケ島へ来訪即日帰阪す」とある。
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「債務の整理#」