ウィリアム・ミッチェル
ウィリアム・ランドラム・ミッチェル(William Lendrum Mitchell、1879~1936年)は、アメリカ陸軍の将軍。航空戦力を重視し、陸軍から空軍を独立させようと尽力したため"空軍の父"と呼ばれる[1]。
大正15年(1926年)に大佐で除隊する。
昭和6年(1931年)~7年に米雑誌『Liberty(リバティ)』[2]に掲載した論説で「米軍機はアラスカから日本を容易に攻撃できる」という好戦的なことを書いた。これに刺激を受けた昭和青年会では防空思想の普及運動を展開し、航空部を設置したり、各地で防空展覧会を開催した。
目次
ミッチェルの論説
- 「The Next War — What About Our National Defense?(次の戦争 私たちの国防はどうですか?)」Liberty 1931年6月27日号……日本語訳は、世界時事問題調査会・編『一九三六・アメリカはどう見る?』[3]昭和9年(1934年)3月25日、日本公論社、p113-149に「来るべき戦争─わが国防は何うか?─」と題して収録されている。国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『一九三六・アメリカはどう見る?』 PID:1062807
- 「Are We Ready for War with Japan?(私たちは日本との戦争の準備ができていますか?)」 Liberty 1932年1月30日号……日本語訳は、『満蒙問題資料 第二十一輯』昭和7年(1932年)4月、帝国在郷軍人会本部、p1-9に「日米戦近づく」という題で抄出が収録されている。国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『満蒙問題資料 第二十一輯』 PID:3458459
- 「Will Japan Try to Conquer the United States?(日本はアメリカを征服しようとしますか?)」 Liberty 1932年6月25日号
日本の新聞記事でミッチェルの論説が紹介されているようだが、未確認。
【参考サイト】アメリカの雑誌の総目次的なサイト
大本の防空思想
昭和青年会の活動は昭和7年(1932年)から防空思想を始め国防色が強くなって行った。それは満州事変(昭和6年9月~翌7年2月)や上海事変(7年1~3月)で飛行機が戦闘に使用され、飛行機の重要性が認識されたことと、ミッチェルの論説の影響がある。
もともと王仁三郎は大正4年(1915年)から航空の必要性を説いていた[4] [5]。
大正6年(1917年)12月1日に王仁三郎に下った神示「瑞能神歌」では「やがては降らす雨利加(あめりか)の、数より多き迦具槌(かぐつち)に、打たれ砕かれ血の川の、憂瀬を渡る国民(くにたみ)の(略)水底(みなそこ)潜る仇艦(あだぶね)と、御空に轟ろく鳥船の、醜の荒びに悩まされ」等と、米軍機による空襲を警告している。〔『王仁文庫 第三篇 瑞能神歌』「大本神歌#」〕
昭和7年(1932年)4月、昭和青年会に航空研究部が設置された[6] [4] [7]。
『昭和青年』昭和7年(1932年)4月号p76-78に「防空なくして国防なし」という題で昭和青年会航空研究部による論説が載っている。その中でミッチェルの「Are We Ready for War with Japan?」(論説中では「われわれは日本と戦争の用意あり」と訳している)の抄出を引用し、「わが航空勢力を少なくも今日の数倍にする必要がある」と訴えている。ここで引用されているミッチェルの論説の抄出は『満蒙問題資料』掲載の抄出の一部とほぼ同じ文章である。
『昭和青年』誌は昭和7年(1932年)7月号で防空思想を特集している。
『人類愛善新聞』昭和7年(1932年)3月下旬号p3に「昭和青年に飛行隊 総本部に飛行場新設」という見出しの記事がある。また同年4月中旬号p2は「全日本に捲き起つた「空を護れ」の声」「防空なくして国防は無い」という見出しでほぼ1頁を使って防空思想の特集が組まれている。
このように、満州事変・上海事変や、ミッチェルの論説の影響で、この時期から大本の防空思想が高まって行った。
【参考資料】
外部リンク
- ウィリアム・ミッチェル - ウィキペディア
- Billy Mitchell - ウィキペディア英語版
- Liberty (general interest magazine) - ウィキペディア英語版
- 米大衆誌『リバティー』歴史アーカイブ 1924-1950年
脚注
- ↑ ただし実際にアメリカ空軍が発足したのは昭和22年(1947年)。
- ↑ Liberty誌はアメリカで1924年から1950年まで発行された週刊誌。
- ↑ 題名の「一九三六」は、昭和5年(1930年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約の期限が切れる昭和11年(1936年)に日米戦争が勃発する危機があるという1936問題に由来する。
- ↑ 4.0 4.1 『昭和青年』昭和7年(1932年)3月号p19に、昭和青年会に航空研究部を設立するとの告知が掲載されている。その中に「且つて大正四年出口会長は航空の必要性を説き、昔時、之に対する実行にさへ進まれたのである」と書いてある。ただしどのようなことを王仁三郎が「説き」、「実行」したのかは不明。また続けて「今回満洲より来郷されたる責任会長出口日出麿師の改めての提唱に依り、昭和青年会航空研究部設立の運びに至りたるは実に同慶の至りである」と書いてある。
- ↑ 『人類愛善新聞』昭和7年(1932年)3月下旬号p3に「総裁は大正四年頃すでに実質的な民間航空時代の来る事を前知し飛行場新設の計画等もあり、常に青年の航空指導には意をもちいてゐた」とある。
- ↑ 『昭和青年』昭和8年(1933年)10月号p70「昭和七年四月、「防空なくして国防なし」を声明して、昭和青年会航空研究部が新設された」
- ↑ 大本七十年史や大本年表では昭和7年(1932年)8月23日に「航空部」と「訓練部」が新設されたとある〔『大本七十年史 下巻』「昭和青年会と防空運動#」〕。昭和9年(1934年)8月21日に航空部は「国防部」に、訓練部は「統制部」に改められた〔『大本七十年史 下巻』「地方組織の拡大#」〕。