出口和明

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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出口和明(でぐち やすあき)(1930年 - 2002年)は、出口宇知麿八重野夫妻の長男。王仁三郎の孫。作家として「野上竜(のがみ りゅう)」「十和田龍(とわだ りゅう)」というペンネームがある。

妻は出口禮子。5人の子供がいる。

目次

略歴

  • 昭和5年(1930年)8月15日(旧閏6月21日)生まれ。
  • 早稲田大学文学部中退。
  • 大本から離れて大学食堂[1]を経営していたが、昭和38年(1963年)、ペンネーム「野上竜」で書いた『凶徒』という小説で、第2回オール読物推理小説新人賞(文芸春秋社)を受賞。『オール読物』9月号で発表される。[2]
  • 昭和43年(1968年)機関誌『おほもと』誌上に『大地の母』の連載を開始する。やがて大本本部の方針に疑問を持つようになり教団改革運動を起こす。これが後に「第三次大本事件」と呼ばれるようになる。
  • 昭和55年(1980年)3月、株式会社いづとみづの会を有志らと設立。機関誌『いづとみづ』を発行して改革を訴える。
  • 昭和57年(1982年)2月、宣伝使を解任される。同年4月、出口昭弘坂田三郎と共に教団を相手取り地位確認訴訟を起こす。(昭和63年9月に訴訟取り下げ)
  • 昭和61年(1986年)11月、有志らと愛善苑を設立。
  • 平成元年(1989年)3月、八幡書店から霊界物語の刊行を開始。(編纂者である「霊界物語刊行会」の代表が出口和明)
  • 平成14年(2002年)6月19日(旧5月9日)帰幽。71歳。

十和田湖の竜神

王仁三郎は和明が生まれたときに、この子は十和田湖の竜神の再生であると語った。そのことが本人や周囲の人たちに様々な影響を与えた。

 昭和三年九月二二日樺太、北海道、東北宣教の旅の帰途、王仁三郎は十和田湖畔で泊まった。その夜半、十和田湖の龍神男装坊が地をふるわせ激しい嵐を呼びおこしてあらわれ、王仁三郎と神約をかわし上天したという。

「数万年湖底に潜みし神霊のまさに世に出る時は来にけり\湖の主も生言霊に解脱して弥勒の神代に仕え奉らん\吾待ちし神の歓び祝せんと天地一度に轟き渡れり\人の子と生まれ出でたるひと粒の種に花咲く時は近めり\凡人の眼には見えねど神の代の経綸は探し十和田の湖\その昔変性男子の男装坊変性女子を待てる十和田湖\湖の主も今日を境に天かけり弥勒の柱とやがて生れなん\時ならぬ雷鳴轟き地は震りて龍神天に昇る今日かな」『東北日記』六巻

 その二年後の昭和五年八月一五日私が生まれた。王仁三郎は筆をとって、『月鏡』に十和田湖の龍神伝説を書きおろし、「十和田湖の伝説は各方面に点在してすこぶる範囲は広いが、自分はすべての伝説にかかわらないで神界の秘庫を開いて、ここに忌憚なく発表する」と述べる。
出典:出口和明『第三次大本事件の真相』166頁

 かくて男装坊は三熊野三神別けて神素盞嗚尊の神示によりて弥勒の出現を待ちつつありしが、天運茲に循環して昭和三年の秋、四山の紅葉今や錦を織らむとする頃神素盞嗚尊の神示によりて爰に瑞の魂十和田湖畔に来り、弥勒出現の神示を宣りしより男装坊は欣喜雀躍、風雨雷鳴地震を一度に起して徴証を示しつつその英霊は天に昇りたり。それより再び現界人の腹を藉りて生れ男性となりて弥勒神政の神業に奉仕することとはなりぬ。

 吁神界の経綸の深遠にして宏大なる到底人心小智の窺知し得る限りにあらず。畏しとも畏き次第にこそ。
惟神霊幸倍坐世。

 附言、男装坊現世に再生し、弥勒の神業を継承して常磐に堅磐に神代を樹立するの経綸や出生の経緯に就いてはこと神秘に属し、未だ発表を許されざるものあるを遺憾とするものであります。
出典:月鏡「十和田湖の神秘」#
 月鏡、十和田湖の神秘を読んだものは誰も知つてゐる如く、湖の主が昇天の時、王仁に約束した言葉がある。「再生の時は大本に生れて参ります」と。……元来は王仁の子となつて生れる筈であつたが、それが出来なかつたので、八重野が生まして貰つた和明がそれである。十和田の竜神の再生であるから、十和田の和をとり明は日と月で神を表はす積りで斯く命名したのである。王仁をばかり慕つて、父親はそつちのけで聖師様聖師様とつけ纏ふ。霊の因縁は不思議なものである。
出典:玉鏡「男装坊の再生」#

主な著書

脚注

  1. 名古屋の椙山女学園大学
  2. このとき西村京太郎が『歪んだ朝』で同時入賞している。

外部リンク