宇宙紋章
宇宙紋章(うちゅうもんしょう)とは、日・地・月・星をデザインしたマークで、大正12年(1923年)に王仁三郎が制定した。「宇宙徽章」と呼ばれる場合もある[1]。
大正10年(1921年)2月12日、第一次大本事件の当日、大阪の大正日日新聞社で社長として仕事をしていた王仁三郎は、上空に異様の光を放つ上弦の月と太白星を見た。その後、大正12年(1923年)12月に加賀を巡教中に、日月星が天に輝いているのを目撃した。この奇瑞を取り入れて日地月星の宇宙紋を作り、紋服に仕立てて着用した。帰綾後に「宇宙紋章」として五個の徽章を作らせた。[2]
- 「大正十年紀元節の翌日私が空を見てゐると、太陽の横に月があり、その横に星があり、大空は一点の雲なく晴れて何とも知れぬ気持のよい日でありました。それを記念として更始会の徽章を作ったのであります。この異象は入蒙出発当日にもありました。これは愈々蒙古へ入る時節が来たと思つたのであります」〔『出口王仁三郎全集 第五巻』「九月八日の仕組」p460-461〕
大正13年(1924年)2月4日(甲子の年の節分の日[3])、王仁三郎は更始会を創立し、宇宙紋章を会章に定め、節分祭に参拝した主な信者に対してこの徽章を手渡した。[2]
日地月星を現はした甲子章は、次のやうな意味でこしらへたのである。日、地、月は、霊、力、体の三元を現はし、星は火水であつて、形は大本の大の字になつて居る。其星が中央に位置せずして左の方にかたよつて居るのは、まだ世界には他の宗教なんかがあつて、大本が中心でないと云ふ事が現はれて居る。即ち大本としては、活動の余地がまだまだ沢山あるので、皆の活動によつて大本の神様の教が世界中に遍満するに至れば、星の位置は中央に置かるるのである。それで私はあの宇宙章を渡す時に「これを貰ふ人は責任が重いぞ、何等の活動もせぬ人が貰ふべきもので無い」と申して置いた。
人類愛善会のは星が中央にあつて総てを統一して居る、エスペラントの徽章は大本と一所にしないため、星が台より外に出してある、台を白くしてあるのは、月を現はしたのである。『新月の光』によると、
- 宇宙紋章は瑞霊の神票である。〔『新月の光』0065「宇宙紋章」〕
- 王仁三郎は宣伝使に宇宙紋章を渡すときに「これをもらう人は使命が大きいぞ。星は救世主と大本神のことである。この星を世界の中心に出すのが、使命である」と教えた。愛善会の徽章は、神様が世界の中心になられた姿である。〔『新月の光』0101「宇宙紋章と愛善会の徽章」〕
入蒙時の、大本喇嘛教・西北自治軍のシンボルマークとしても使われた。[4] [5] [6]
昭和青年会のシンボルマークとしても使われた。ただし配色が一部異なる。「昭和青年会旗は鶴山織で、縦七四センチ、横九一センチで、中央赤色の丸の中に緑の星を入れ、赤丸の外を白丸でかこみ、その外を黄色の丸でかこんだもので、日地月星の紋様である」[7]
宇宙紋章が出来ることは、明治32年(1899年)十曜の神紋が出来た時、出口直開祖から予告されていた。「大本には後来、さらに新たな紋が出来る。その紋はミロク神政成就のしるしであるから、この時を境として大本は云うに言われぬ結構なことに代わってくる」。神界の許可を得なくては衣服の文様に用いることは出来ない。[8]
第二次大戦後、
脚注
- ↑ 大本事件の裁判の中で「宇宙徽章」と呼ばれている。『大本史料集成』「地裁公判速記録(10)#」
- ↑ 2.0 2.1 『大本七十年史 上巻』「入蒙の決意#」
- ↑ 大正13年(1924年)は2月4日が節分だった。
- ↑ 入蒙記第8章「聖雄と英雄」#:「軍隊を十個旅団となし、日地月星を染抜いたる大本更始会の徽章を旗印となし、それに第一旅団より第十旅団迄の刺繍を施したる軍旗や司令旗を誂へる事となつた。そして大本喇嘛教旗として日地月星を染抜いた文字無しの神旗も共に調製する事と定めたのである」
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「奉天での準備#」
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「蒙古へ出発#」
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「昭和青年会の改組#」
- ↑ 井上留五郎『暁の烏』「(四)新定の紋章#」
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「いいいい#」
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「大本愛善苑#」