万祥殿
Jump to navigation
Jump to search
万祥殿(ばんしょうでん)は、亀岡の天恩郷にある神殿・拝殿。昭和33年(1958年)に完成。
万祥殿はもともと出口王仁三郎が、「花明山に万祥殿の建つ時はわが大本の道輝かむ」と歌を詠んで、その建設を急いでいたが、基礎工事が終わったところで第二次大本事件により破壊されてしまった。
昭和33年(1958年)は開祖40年祭、聖師10年祭の年であり、また昭和3年のみろく大祭から30年目、3代教主・出口直日の56歳7ヶ月にあたる年でもあり、一つの大きな節目の年であった。それを記念する事業として、透明殿が建っていた跡に万祥殿を建設することになった。当時、綾部にはみろく殿が建っていたが、亀岡にはまだ拝殿すらなかった。
建設委員長に嵯峨保二、造営委員長に出口伊佐男、副委員長に大国以都雄が任命され、教団あげての体制が組まれた。
昭和32年(1957年)8月7日の瑞生大祭に地搗き、10月3日に斧始めを行なう。
翌33年(1958年)8月6日に御神体が鎮座された。翌日の8月7日、瑞生大祭にあわせて完成奉告祭が行なわれ、全国から約4000人の信徒が参集した。
同年10月7日には盛大な完成祝賀祭が行なわれた。
万祥殿は神殿・拝殿・事務所の三棟からなり、鉄筋・木造併用の神殿造りに現代様式を取り入れた。礼拝殿には切妻造りの能様式の舞台や、書院造りの茶室(万祥軒)がもうけられたのが大きな特徴である。
三代教主・出口直日は、「これらの融合する一つの建物は、ミロクの世の雛形になるものと、ひそかに誇りを感じ…聖師様のご理想であった芸術と宗教の一致という、大本の教えから生まれて来たもの」と述べている。
参考文献
- 『大本七十年史 下巻』、1042頁・1090頁~1092頁