「大日本武道宣揚会」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
63行目: | 63行目: | ||
[[天恩郷]]の仮道場での武術講習や全国各地への巡回講師の派遣などによって、大日本武道宣揚会の発足から半年の間に、支部は50ヶ所、会員は1500人となった。会員の増加により仮道場では手狭となり、新道場の建築計画が進んだ。ところが突然、王仁三郎の意向によってその計画が変更され、大日本武道宣揚会総本部と道場が竹田に移転することになった。それは[[竹田別院]]に、道場に転用できる建物が存在していたからである。<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』138頁</ref> | [[天恩郷]]の仮道場での武術講習や全国各地への巡回講師の派遣などによって、大日本武道宣揚会の発足から半年の間に、支部は50ヶ所、会員は1500人となった。会員の増加により仮道場では手狭となり、新道場の建築計画が進んだ。ところが突然、王仁三郎の意向によってその計画が変更され、大日本武道宣揚会総本部と道場が竹田に移転することになった。それは[[竹田別院]]に、道場に転用できる建物が存在していたからである。<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』138頁</ref> | ||
昭和7年(1932年)8月5日、兵庫県朝来郡竹田町竹田(現・朝来市和田山町竹田)にある虎臥城(とらふすじょう。現・竹田城<ref>現在は「天空の城」として有名。</ref>)城址を所有していた竹田町から大本へ、城趾が献納された<ref>竹田での大本宣教が始まったのは昭和6年12月16日であり、すでにその頃から竹田町側から城址献納に向けた動きはあった。『[[竹田別院五十年誌]]』41~44頁・614~615頁</ref>。10月18日、王仁三郎と二代澄子は虎臥城に登り、王仁三郎は城址を「[[愛善郷]]」と命名した。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5227|諸運動の展開}}」</ref> <ref>昭和7年5月16日(五十年誌8頁、615頁では5月16日。七十年史では4月16日。おそらく前者が正しい)、竹田町に[[人類愛善会]]の支部が設置され、全町内400戸が会員となった。それにより虎臥城が大本に献納される話が持ち上がった。7年7月19日に出口宇知麿が竹田町へ行き町長・町議らと協議して、献納が決まった。大日本武道宣揚会設立と虎臥城献納は直接関係はないが、同じ時期に平行して話が進んでいたことになる。</ref> | |||
10月18日に王仁三郎夫妻が宿泊した場所は虎臥城の麓にあり、旧石原本家と呼ばれる町一番の宏壮な邸宅だった。朝来銀行の所有になっていたが、王仁三郎の指示で大本がここを買い取り、12月24日に大本[[竹田別院]]が設置された。<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』10頁・98~106頁。昭和7年現在の旧石原本家の平面略図が102頁にある。</ref> | |||
昭和8年(1933年)3月30日、愛善郷の地鎮祭が城址で執行された際、王仁三郎は竹田別院(旧石原本家)を検分し、「別院の建物あまり多ければ武術の道場に使用せんとす」と歌を詠んだ。天恩郷に新道場を建築する計画が進んでいたが、竹田に適した建物があったため、ここに大日本武道宣揚会の総本部と道場を移転することになった。<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』138頁</ref> | 昭和8年(1933年)3月30日、愛善郷の地鎮祭が城址で執行された際、王仁三郎は竹田別院(旧石原本家)を検分し、「別院の建物あまり多ければ武術の道場に使用せんとす」と歌を詠んだ。天恩郷に新道場を建築する計画が進んでいたが、竹田に適した建物があったため、ここに大日本武道宣揚会の総本部と道場を移転することになった。<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』138頁</ref> |