「水茎文字」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
ページの作成:「'''水茎文字'''(みずくきもじ)とは、大石凝真素美が発見した神代文字。 <書きかけ> == 発見の経緯 == 水茎文字は神代文字の一種だが、他の神代文字のように古文書に記されていたのではなく、また口碑によって伝承されたのでもない。水茎文字は琵琶湖で、大石凝真素美によって発見された。湖面に文字が浮かび上がるという神秘現象によって…」
 
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'''水茎文字'''(みずくきもじ)とは、大石凝真素美が発見した神代文字。
'''水茎文字'''(みずくきもじ)とは、大石凝真素美が発見した神代文字。



2025年3月22日 (土) 04:39時点における版

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水茎文字(みずくきもじ)とは、大石凝真素美が発見した神代文字。

<書きかけ>

発見の経緯

水茎文字は神代文字の一種だが、他の神代文字のように古文書に記されていたのではなく、また口碑によって伝承されたのでもない。水茎文字は琵琶湖で、大石凝真素美によって発見された。湖面に文字が浮かび上がるという神秘現象によって発見されたのである。

水野満年大石凝真素美先生伝[1]の「水茎の岡山望見」及び宇佐美景堂日本言霊学概論」を総合すると、大石凝真素美が水茎文字を発見した経緯はおよそ次のようになる。(以下、前者を「伝」、後者を「概論」と略す)

明治15年(1882年)頃[2]、大石凝は滋賀県甲賀郡毛枚村《もびらむら》(現・甲賀市甲賀町毛枚)に住んでいた。大石凝は大和を巡遊した帰路、野洲《やす》の親戚宅を訪れ、琵琶湖を船で八幡へ渡ろうとした。沖の島の南面を過ぎる時[3]、水面に大きな波紋を見た。凝視していると十数分して形が変化して行く。しかし船上ではその全体を見ることができないため、八幡に上陸し、湖辺を西へ行くと、小さな山脈があった(これが水茎の岡)。その西端の小丘に登って湖を見渡すと、大波紋が一望できた。波紋は文字のような形をしていた。大石凝はそれを見て驚き、これは自分が研究している言霊の文字ではないかと喜んだ[4]。その形を書き留めて行くと、75種類あった。大石凝はこれを水茎文字と呼び、言霊の音韻文字とした。

【発見時期】

大石凝真素美が琵琶湖で水茎文字を発見した時期について「伝」と「概論」では数年の食い違いがある。「伝」には発見年月日が明記されていないものの、明治9年の「誓火霊験の失敗」と、明治11~12年の「天津金木の研鑽」の間に水茎文字発見のエピソードが記されているので、明治9年乃至12年つまり明治10年前後ということになる。それに対して「概論」には明治15年(1882年)頃と明記されている。

【名称】

水茎の岡からこの文字を実見したので仮に「水茎文字」と名付けた[5]。従って「水茎」という言葉に特に意味があるわけではない。

脚注

  1. 大石凝真素美先生伝# - 霊界物語ネット
  2. 「伝」による。
  3. 「伝」に〈沖の島の南面を過ぐる時〉と記されている。たとえば野洲川で船に乗り琵琶湖へ出て八幡(当時は内湖があった)へ行こうとすると、ある程度のところで長命寺山に遮られて沖の島が見えなくなる。〈過ぎる時〉とはそういう意味か?
  4. 「伝」には〈先生之を熟視して驚嘆して曰く(略)是れ我が修養せる言霊学の音韻文字なり〉、「概論」には〈それが翁の考へてゐた言霊説と一致してゐた〉と記されている。これは大石凝が研究していた言霊学の理論と、湖面に浮かんだ文字の構造(理論)とが一致していた、という意味ではないかと思われる。つまり理論はすでに存在していたが、それを表現するための記号(文字)はまだなかった、その記号が湖上に浮かんで見えたので大石凝は驚嘆したということだと思われる。
  5. 「概論」による。