「恒天暦」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
ページの作成:「'''恒天暦'''(こうてんれき)とは、太陽暦・太陰暦と並び三大暦(三大暦儀)の一つ。 == 概要 == 出口王仁三郎古事記の「御倉板挙之神《みくらたなのかみ》」(イザナギが首飾りの珠の緒をゆらした時にアマテラスが生まれたが、その珠の名を御倉板挙之神という)とは、三大暦のことだと解釈した。<ref>この解釈は大石凝真素美から受…」
 
 
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== 概要 ==
== 概要 ==
[[出口王仁三郎]]は[[古事記]]の「御倉板挙之神《みくらたなのかみ》」(イザナギが首飾りの珠の緒をゆらした時にアマテラスが生まれたが、その珠の名を御倉板挙之神という)とは、三大暦のことだと解釈した。<ref>この解釈は[[大石凝真素美]]から受け継がれている。</ref> <ref>三種の神器の一つ「玉」は、八尺瓊勾玉と言い、アマテラスの岩戸隠れの際に布刀玉命が八咫鏡と共に榊の木に掛けたもの…と一般には解釈されているが、王仁三郎はその「玉」とはこの三大暦であると解釈している。〈本来三種の神器の鏡は言霊である。昔は伊勢に天津金木をお祭りしてあったのである。言霊によって一切のことが判るからである。ピカピカ光る鏡にしたのは後からである。剣とは日本国で、'''玉とは恒天暦、太陽暦、太陰暦のこと'''である。宇宙の大権を天津神がおさづけになったのである。〉〔『新月の光』0548「三種の神器」〕</ref>
[[出口王仁三郎]]は[[古事記]]の「御倉板挙之神(みくらたなのかみ)」(イザナギが首飾りの珠の緒をゆらした時にアマテラスが生まれたが、その珠の名を御倉板挙之神という)とは、三大暦のことだと解釈した。<ref>この解釈は[[大石凝真素美]]から受け継がれている。</ref> <ref>三種の神器の一つ「玉」は、八尺瓊勾玉と言い、アマテラスの岩戸隠れの際に布刀玉命が八咫鏡と共に榊の木に掛けたもの…と一般には解釈されているが、王仁三郎はその「玉」とはこの三大暦であると解釈している。〈本来三種の神器の鏡は言霊である。昔は伊勢に天津金木をお祭りしてあったのである。言霊によって一切のことが判るからである。ピカピカ光る鏡にしたのは後からである。剣とは日本国で、'''玉とは恒天暦、太陽暦、太陰暦のこと'''である。宇宙の大権を天津神がおさづけになったのである。〉〔『新月の光』0548「三種の神器」〕</ref>


* 〈御倉棚の神なる宇宙経綸の三大暦即ち恒天暦、太陽暦、太陰暦の大本元を極めて〉〔{{rm|10|27|言霊解一}}〕
* 〈御倉棚の神なる宇宙経綸の三大暦即ち恒天暦、太陽暦、太陰暦の大本元を極めて〉〔{{rm|10|27|言霊解一}}〕
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上では恒天暦は1年360日だと王仁三郎は言っているが、別のところでは375日だと言っている。<ref>『[[大本史料集成]] 2』収録の言霊学資料「梅能花」10頁下段「三産棚神」の説明の中で「恒天暦は三百七十五日を以て一年とす」と書かれている。この文献は大正4年に王仁三郎が筆記したもの。</ref>
上では恒天暦は1年360日だと王仁三郎は言っているが、別のところでは375日だと言っている。<ref>『[[大本史料集成]] 2』収録の言霊学資料「梅能花」10頁下段「三産棚神」の説明の中で「恒天暦は三百七十五日を以て一年とす」と書かれている。この文献は大正4年に王仁三郎が筆記したもの。</ref>


『新月の光』によると、みろくの世の暦法は恒天暦だと王仁三郎は答えている。
『[[新月の光]]』によると、みろくの世の暦法は恒天暦だと王仁三郎は答えている。


{{inyou|問 みろくの暦法は。
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2025年3月11日 (火) 23:41時点における最新版

恒天暦(こうてんれき)とは、太陽暦・太陰暦と並び三大暦(三大暦儀)の一つ。

概要

出口王仁三郎古事記の「御倉板挙之神(みくらたなのかみ)」(イザナギが首飾りの珠の緒をゆらした時にアマテラスが生まれたが、その珠の名を御倉板挙之神という)とは、三大暦のことだと解釈した。[1] [2]

  • 〈御倉棚の神なる宇宙経綸の三大暦即ち恒天暦、太陽暦、太陰暦の大本元を極めて〉〔第10巻第27章言霊解一#
  • 〈此の御倉板挙之神といふことは、言霊学上から見ても、神様の方で申されまする暦――此世界には恒天暦、太陽暦、太陰暦の三つの暦が常に運行循環して居るのであります。で、此御頸珠をお授けになつたといふのは、所謂御倉板挙之神、即ち恒天暦、太陽暦、太陰暦をお授けになつたのであります。〉〔第12巻第28章三柱の貴子#

恒天暦とは三大暦の一つだが、どういう暦法なのか、具体的なことはよく分からない。

  • 〈恒天暦は宇宙の現象に基づいて造ったもので、これによれば陽気に絶対に狂いがないのである。恒天暦によれば六十日が一月または一年ということになる。甲子より癸亥まで[3]である。世の中は六が本で三六と言い、六が本であって六十に六かけると三百六十になり、恒天暦では一年三百六十日である。太陰暦は三百五十日、太陽暦は三百六十五日と六時間である。王仁は恒天暦の暦を昔こんなものに(両手をひろげて紙の大きさを示して)書いておいたが、どこにも残っておらぬ。〉〔『新月の光』0549「恒天暦(みろくの世の暦)」〕

上では恒天暦は1年360日だと王仁三郎は言っているが、別のところでは375日だと言っている。[4]

新月の光』によると、みろくの世の暦法は恒天暦だと王仁三郎は答えている。

問 みろくの暦法は。 答 恒天暦は宇宙の規則やから恒天暦から太陽暦、太陰暦が出ているのやから、人民のことは太陰暦を用いる。
出典: 『新月の光』0755「みろくの世の暦法」

北斗暦

王仁三郎は恒天暦とは「北斗暦」だと教えている。

今の一月一日は西洋人の私作にかかる太陽暦に従つて生ずる所の元旦である。太陽暦は我皇国の天地に対して春も春ならず、秋も亦秋ならず、二月に二十八日の不具数を生ずるなど、不満不便の点が最も多い。凡そ暦と云ふものは、要するに天地の自然に基づかねばならぬものである。古の釈迦にしろ、将又日蓮にしろ、何れも皆北斗暦に拠つたものである。太陽、太陰の両暦に対照して見れば、北斗暦の万世不易なる点に於て大に勝つて居ると思ふ。北斗暦に依れば大正九年の二月一日は太陰暦の十二月十二日に当る[5]。吾人神国民は惟神の大道に従ひ、以て東洋文明の権威を示し、併せて天地の真理に浴すべく一日も早く北斗暦(恒天暦)を正暦として正真の正月元旦の用ゐられ、日蓮の唱へたる艮(日の若宮)の義の顕れむ事を祈る次第である。
出典: 『神霊界』大正9年(1920年)1月15日号掲載「随筆」(『出口王仁三郎全集 第五巻』収録#

北斗暦とは古来からあるようだが、どういう暦法なのかはわからない。

  • 〈上古に於ては北斗曆といつて、北斗星の舞い方で時、日、季節を知つたものだ。〉〔小西久遠「家相から見て」『オール読物』第6巻第7号、昭和26年(1951年)8月、76~77頁〕
  • 「恒天暦」の注記〈北斗暦ともいう。星のうごきをもととする天体の運行による暦法。〉〔『出口王仁三郎著作集 第一巻』448~449頁、村上重良による解説、NDLDL蔵書 PID:12278893/1/230

北斗中正暦

北斗暦と似た名称の暦法に「北斗中正暦」がある。工藤茂三郎が明治中期に考案した暦法で、次のような特徴がある。

  • 立春を元日とする。
  • 1ヶ月は原則として30日とし、四季(四半期)ごとに中心日を付加する。具体的には2・5・8・11月の15日に後に付加日を挿入する。これを閏16日と呼び、また、春中日・夏中日・秋中日・冬中日と呼ぶ。6月30日の後にも付加日を挿入し、これを閏30日と呼び、また、歳中日と呼ぶ。付加日が計5日あるため、30日×12ヶ月+5日=365日となる。4年ごとに閏年を設け、閏日は12月30日の後に挿入する。これを閏30日と呼び、また、大歳中日と呼ぶ。
  • 2ヶ月で六十干支が一周する。閏日は閏が付かない日の干支と同じとする。

王仁三郎が言う「恒天暦=北斗暦」がこの「北斗中正暦」と同じようなものなのかは分からない。

北斗七星を観測して、その動きから時の流れを知る、という方法は古代から存在している。[6]

【参考文献】

  • 工藤茂三郎『北斗中正百年暦』大正3年(1914年)、中陽館、NDLDL蔵書 PID:951293
  • 能田忠亮『暦学史論』昭和23年(1948年)、生活社、320頁「北斗中正暦」、NDLDL蔵書 PID:1063832/1/168
  • 水谷清古事記大講 第11巻(天照大御神)』31~39頁で北斗中正暦が紹介されている。

外部リンク

脚注

  1. この解釈は大石凝真素美から受け継がれている。
  2. 三種の神器の一つ「玉」は、八尺瓊勾玉と言い、アマテラスの岩戸隠れの際に布刀玉命が八咫鏡と共に榊の木に掛けたもの…と一般には解釈されているが、王仁三郎はその「玉」とはこの三大暦であると解釈している。〈本来三種の神器の鏡は言霊である。昔は伊勢に天津金木をお祭りしてあったのである。言霊によって一切のことが判るからである。ピカピカ光る鏡にしたのは後からである。剣とは日本国で、玉とは恒天暦、太陽暦、太陰暦のことである。宇宙の大権を天津神がおさづけになったのである。〉〔『新月の光』0548「三種の神器」〕
  3. 甲子は干支の一番最初、癸亥は一番最後、つまり60個。
  4. 大本史料集成 2』収録の言霊学資料「梅能花」10頁下段「三産棚神」の説明の中で「恒天暦は三百七十五日を以て一年とす」と書かれている。この文献は大正4年に王仁三郎が筆記したもの。
  5. 新暦の大正9年2月1日が旧暦の大正8年12月12日に当たる。
  6. 『暦学史論』第3章・第4章参照