「神島開き」の版間の差分
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神島開き(かみじまびらき)は、大正5年(1916年)に神島で行われた神業。同年6月、9月、10月の3回にわたる神島参りを「神島開き」と呼ぶ。
神島は瀬戸内海の高砂沖にある島で、坤の金神が隠退していた。
神島の概要
- 神島は瀬戸内海の家島諸島の東端にある小さな無人島で、一般には「上島(かみしま、かみじま)」と呼ばれている。「神島」とは大本での呼び方である。
- 家島は「いえしま」と読むが、過去には「えじま」とも呼ばれた。霊界物語ではすべて「えじま」とルビが振られている。
- 行政上は兵庫県姫路市に所属する。明治22年(1889年)に家島村が発足。昭和3年(1928年)に町制施行して家島町になる。平成18年(2006年)姫路市に合併。
→霊界物語に登場する太古の神島については「神島」を見よ
一度目の参拝
大正5年(1916年)のある春の夜、王仁三郎の霊眼に、坤の方面の沖合に炮烙(ほうらく)[1]を伏せたような島が見えた。それ以降、左の歯茎の上の辺りが痛み出し、48日目にそこから一つの舎利(骨)が出て来た。それは霊眼で見た島の形そのものであった。その島を探すよう信者に命じたところ、兵庫県の高砂沖にある上島がそれであろうという報告があった。その島は後に大本では「神島」と呼ばれることになる。→島の詳細は「神島」を見よ
王仁三郎の霊覚では、その島に坤の金神の分霊が鎮まっているという。その神霊を迎えるために、6月25日(旧5月25日)王仁三郎は直日・大二ら一行60人と共に鉄道で高砂浦(たかさごうら)[2]に向かった。出発した頃から雨が降り出していたが、高砂に着いた頃には激しくなり風も吹き始めていたため、出船が危ぶまれた。王仁三郎は坤の金神として女装をし、準備が整った頃には風雨は収まった。一行は3隻の船に分乗して神島に向かった。
一行は王仁三郎を先頭に、6尺あまりの矢竹の茂みを切り開きながら進み、300mほど上がった平面の地を斎場にした。王仁三郎は弓矢で、艮と坤の空に向かって射る型をして四方を祓い、鎮魂の神事を行った。持参して来た祠で神島の大神(坤の金神)の鎮祭をし、その神祠を捧持して島を離れた。
28日に帰綾し、竜宮館に神島の大神を奉迎した。こうして神島が開かれたが、その意義は艮の金神と坤の金神との対面にあると解され、出口直と王仁三郎との間に祝盃があった。
二度目の参拝
9月8日(旧8月11日)王仁三郎ら一行6人が再び神島に渡った。王仁三郎は島の海岸の岩の洞穴で神宝を受けた。帰綾後、金竜海の大八洲神社の岩戸の中に神宝を仮遷座した。9月12日に出口直はこの岩戸に参拝。この時、澄子に神懸かりがあった。
三度目の参拝
10月4日(旧9月8日)、出口直、王仁三郎、澄子、直日ほか出口家全員で神島に向かった。途中で各地からの参拝者も加わり、一行は百数十人となった。翌10月5日(旧9月9日)一行は9隻の船に分乗して神島に渡った。新しく造った神祠で坤の金神の鎮座祭を行い、王仁三郎は剣で大祓いの神事を執行した。このとき、王仁三郎の娘の一二三(4歳)と尚江(1歳)が、無心に松の枝でその辺りを掃き出し、自ら尉と姥の型をさせられた。一行は7日夜に帰綾した。
出口直は神島参りの時、王仁三郎の霊魂がミロクの神であるという神示を受け、非常に驚いた。その日の筆先には次のように出ている(大本神諭から引用)。
この神示により、王仁三郎を守護していた、悪神とも言われた「小松林の霊」も、「素盞嗚尊」の霊も、「五六七神の御霊」であったことが判明し、それまで一部の役員たちから排斥されていた王仁三郎の御霊は、根本の天の先祖であるミロク様の霊統であることが明らかにされた。
これによって出口直の王仁三郎に対する神格や使命に対する認識が大きく変わることとなり、25年間の未顕真実(未見真実)が終わり、顕真実(見真実)の境地へと入った。[3] →「見真実」
参考文献
本項の記事は特別な注記がない限り、『大本七十年史 上巻』「神島開き#」をもとに作成した。
神島開きを扱っている文献
霊界物語での神島開き
霊界物語の自叙伝(第37巻・第38巻)には神島開きの話題はほんのわずかしか記されていない。教祖(出口直)の見真実に関して次のように触れられているだけである。