「岡田惟平」の版間の差分
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翌年(1861)、父・和平が死去。 | 翌年(1861)、父・和平が死去。 | ||
学問に身を投じる惟平家の生活は苦しく、次男の楚玉は9歳で丹波・法京村の普門寺(現・南丹市園部町法京蔵垣内)へ預ける<ref> | 学問に身を投じる惟平家の生活は苦しく、次男の楚玉は9歳で丹波・法京村の普門寺(現・南丹市園部町法京蔵垣内)へ預ける<ref>『[[国学者 岡田惟平]]』では「普門寺」としているが、『大地の母』では「福泉寺」だとしている。</ref>。また三男の徳栄は摂津・此花郡の黄檗宗の寺へ預ける。 | ||
文久2年(1862)「詩玉度 ことばたまど」という自筆の動詞活用表を作成。惟平が創作し、門弟に正しい「仮名づかい」と「文法」を指導するために使ったと思われる。 | 文久2年(1862)「詩玉度 ことばたまど」という自筆の動詞活用表を作成。惟平が創作し、門弟に正しい「仮名づかい」と「文法」を指導するために使ったと思われる。 | ||
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上田喜三郎は明治26年(1893)7月、故郷の亀岡を離れ、園部で獣医をしている従兄([[井上直吉]])の元に書生として住みこんだ。そこは井上牧場という所で、南陽寺の隣にある。喜三郎は働きながら、南陽寺で惟平に師事して国学や和歌を学んだ。 | 上田喜三郎は明治26年(1893)7月、故郷の亀岡を離れ、園部で獣医をしている従兄([[井上直吉]])の元に書生として住みこんだ。そこは井上牧場という所で、南陽寺の隣にある。喜三郎は働きながら、南陽寺で惟平に師事して国学や和歌を学んだ。 | ||
また喜三郎は、住職・楚玉の長男・岡田和厚(当時10歳)と無二の親友となった。<ref> | また喜三郎は、住職・楚玉の長男・岡田和厚(当時10歳)と無二の親友となった。<ref>岡田和厚の弟・岡田了範(十五世住職)の二男が『[[国学者 岡田惟平]]』の著者・岡田完司。南陽寺の住職は代々岡田惟平の子孫が継いでおり、現在の住職は岡田紀章。</ref> | ||
惟平が喜三郎に教えていたのはわずか1年2ヶ月ほどであったが、「あれはなかなかの傑物だ。しかし一歩誤ると堕落してしまうおそれがある」と、喜三郎に非常な期待を寄せていた。 | 惟平が喜三郎に教えていたのはわずか1年2ヶ月ほどであったが、「あれはなかなかの傑物だ。しかし一歩誤ると堕落してしまうおそれがある」と、喜三郎に非常な期待を寄せていた。 | ||