「田村月樵」の版間の差分
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2023年6月7日 (水) 19:06時点における版
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田村月樵(たむら げっしょう、1846~1918年)は、画家。出口王仁三郎の従兄。別名・田村宗立(そうりゅう、むねたつ)。
王仁三郎の父・上田吉松(婿入り前の名前は佐野梅吉)の兄または姉の子供だと思われるが詳細は不明。
第八歌集『青嵐』に「従兄月樵」という項があり、明治32年(1899年)1月に京都の稲荷大社に参拝した帰途、篠村(現在の亀岡市篠町)の闇宮(くらがりのみや)(現・王子神社)を参拝し、田村月樵と会って話したことが歌われている。
くらがりの宮の社務所に立寄りて|従兄《いとこ》の田村月樵を訪ふ
くらがりの宮の笠松《かさまつ》幹ふとく丈《たけ》たかくして天にのびをり
久闊《きうくわつ》を叙せば従兄の月樵は何してゐるかとしみじみ尋ぬる
去年《こぞ》の春ゆ惟神の道に仕へしといへば月樵黙《もだ》しゐたりき
ややしばしありて月樵おもむろに絵を学べよとわれにすすむる
絵の道はわれ好めどもかむながら神の道にはそむけじと答ふ
月樵はうなづきながら神国《かみくに》の前途のために尽せと教ふる
出典:出口王仁三郎『青嵐』pp.24-25
経歴が記されている資料
田村月樵の出生や経歴については諸説ある。
- 出口王仁三郎「故郷の二十八年#」:「父(注・王仁三郎の父の佐野梅吉)は丹波国船井郡川辺村字船岡[1]の佐野五郎右衛門の八男と生まれたのである」「彼の有名なる仏画の巨匠田村月樵翁は、佐野家に生まれたのである。王仁とは従兄弟の間柄である」[2]
- 平井啓修「田村宗立研究─先行研究と所蔵資料の考察─」[3]には信頼性の高い次の2つの情報が記されている。
- 田村宗立自筆の経歴資料によると「弘化三年八月二〇日に丹波国舟井郡河内村で生まれ、父の名は田村式部源宗貫で中山家に仕え、母の名は尚子」
- 長舟洋司(京都文化博物館学芸員)によると「弘化三年五月八日生まれ、大正七年七月一〇日没。父の名は(貫立)式部、母はナミ」「園部近在[船井郡上河内村]には母・ナミの生家があり」[4]
- https://dl.ndl.go.jp/pid/778769/1/82
- https://dl.ndl.go.jp/pid/933863/1/502
- 「弘化三年八月二十日丹波国園部に生る、田村式部氏の長男」
- https://dl.ndl.go.jp/pid/851286/1/24
- 「田村宗貫ノ男ナリ」
- https://dl.ndl.go.jp/pid/851283/1/141
- 「田村宗貫ノ男ニシテ」
- https://dl.ndl.go.jp/pid/1183769/1/82
- https://dl.ndl.go.jp/pid/926794/1/42
- https://dl.ndl.go.jp/pid/3451915/1/178
- https://dl.ndl.go.jp/pid/936721/1/190
- https://dl.ndl.go.jp/pid/1874398/1/288
- https://www.mizuyama.com/C/4-tamura-souryu.htm
- 「弘化3年(1846)8月丹波国園部に田村宗貫と佐野忠左衛門の次女ナミとの間に生まれる」(出典不明)
外部リンク
- 田村宗立 - コトバンク
- 田村 宗立 - コトバンク
- 田村宗立 - ウィキペディア「丹波国船井郡河内村(現在の京都府南丹市)に田村宗貫と佐野忠左衛門の次女尚子との間に生まれる」(出典不明)
脚注
- ↑ 現在の南丹市園部町船岡。
- ↑ 『大本七十年史』や『大地の母』では、佐野梅吉は佐野清六の次男ということになっている。これは戸籍にそのように記されているからのようである。王仁三郎本人の主張と戸籍の内容が異なる理由は不明。
- ↑ 『Cross sections 京都国立近代美術館研究論集 Vol.8』2016年、24~35頁
- ↑ 原拠は長舟洋司「田村宗立関連資料の整理と紹介」『鹿島美術研究』(年報第22号別冊)2005年、74頁
- ↑ 中山家の中山慶子(1836~1907年)は明治天皇の生母。
- ↑ 元治元年=1864年
- ↑ 「柏原」は現在の亀岡市篠町の一部。明治22年(1889年)に桑田郡の篠村や柏原村などが合併し、新たに南桑田郡篠村が誕生した。
- ↑ 「孝子」は、親孝行な子の意。