「田村月樵」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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田村月樵の父母や幼少期については諸説ある。
 
田村月樵の父母や幼少期については諸説ある。
  
出口王仁三郎「{{obc|B195305c103|故郷の二十八年}}」:「父(編注・佐野梅吉)は丹波国船井郡川辺村字船岡の佐野五郎右衛門の八男と生まれたのである(略)彼の有名なる仏画の巨匠田村月樵翁は、佐野家に生まれたのである。王仁とは従兄弟の間柄である」
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出口王仁三郎「{{obc|B195305c103|故郷の二十八年}}」:「父(編注・佐野梅吉)は丹波国船井郡川辺村字船岡の佐野五郎右衛門の八男と生まれたのである」「彼の有名なる仏画の巨匠田村月樵翁は、佐野家に生まれたのである。王仁とは従兄弟の間柄である」<ref>『[[大本七十年史]]』や『[[大地の]]母』では、佐野梅吉は[[佐野清六]]の次男ということになっている。これは戸籍にそのように記されているからのようである。</ref>
  
 
https://dl.ndl.go.jp/pid/778769/1/82
 
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2023年5月23日 (火) 18:10時点における版

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田村月樵(たむら げっしょう、1846~1918年)は、画家。出口王仁三郎の従兄。別名・田村宗立(そうりゅう、むねたつ)。

王仁三郎の父・上田吉松(婿入り前の名前は佐野梅吉)の兄または姉の子供だと思われるが詳細は不明。

経歴が記されている資料

田村月樵の父母や幼少期については諸説ある。

出口王仁三郎「故郷の二十八年#」:「父(編注・佐野梅吉)は丹波国船井郡川辺村字船岡の佐野五郎右衛門の八男と生まれたのである」「彼の有名なる仏画の巨匠田村月樵翁は、佐野家に生まれたのである。王仁とは従兄弟の間柄である」[1]

https://dl.ndl.go.jp/pid/778769/1/82 本人の談「元私の生国は丹波の園部近在で厶いまして、父は名を式部と云ひ、公卿の中山家に仕へて居りました。夫で私は三歳の時京都に参り、此方で生長致し、其後亀岡、其頃は亀山と申しましたがそこへ参り、十歳の時まで居りました」「元治元年の五月、私は十九歳の時父は歿しまして(略)」[2] [3]

https://dl.ndl.go.jp/pid/933863/1/502 「弘化三年八月二十日丹波国園部に生る、田村式部氏の長男」

https://dl.ndl.go.jp/pid/851286/1/24 「田村宗貫ノ男ナリ」

https://dl.ndl.go.jp/pid/851283/1/141 「田村宗貫ノ男ニシテ」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1183769/1/82

https://dl.ndl.go.jp/pid/926794/1/42

https://dl.ndl.go.jp/pid/3451915/1/178 「南桑田郡柏原の人、父の源仲は孝子文右衛門の孝に感じ施薬した医師である。父の死後、母もよは月樵を連れて篠村王子の神官栗山右近の後妻となつた。月樵は十歳となつてその家庭の人となるを忌み、入洛して(略)」[4] [5]

https://dl.ndl.go.jp/pid/936721/1/190

https://dl.ndl.go.jp/pid/1874398/1/288

https://www.mizuyama.com/C/4-tamura-souryu.htm 「弘化3年(1846)8月丹波国園部に田村宗貫と佐野忠左衛門の次女ナミとの間に生まれる」(出典不明)

外部リンク

脚注

  1. 大本七十年史』や『大地の母』では、佐野梅吉は佐野清六の次男ということになっている。これは戸籍にそのように記されているからのようである。
  2. 中山家の中山慶子(1836~1907年)は明治天皇の生母。
  3. 元治元年=1864年
  4. 「柏原」は現在の亀岡市篠町の一部。明治22年(1889年)に桑田郡の篠村や柏原村などが合併し、新たに南桑田郡篠村が誕生した。
  5. 「孝子」は、親孝行な子の意。