「中村孝道」の版間の差分
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* [[有栖川宮]]家の侍医だった<ref>『[[新月の光]]』0631「王仁と言霊学」</ref>。 | * [[有栖川宮]]家の侍医だった<ref>『[[新月の光]]』0631「王仁と言霊学」</ref>。 | ||
* [[五十嵐政雄]](篤好)『[[言霊真澄鏡]]』の「緒言」には──文化13年(1816年)に、日向国の老翁が京都へ出て、野山元盛という人に「上古に言霊といふ教あり」としてその教えを伝えた。同所の中村孝道がそれを受けて教えを人々に伝え、また近江国の[[望月幸智]]([[大石凝真素美]]の祖父)が諸国に伝えた──ということが書いてある。 | * [[五十嵐政雄]](篤好)『[[言霊真澄鏡]]』の「緒言」には──文化13年(1816年)に、日向国の老翁が京都へ出て、野山元盛という人に「上古に言霊といふ教あり」としてその教えを伝えた。同所の中村孝道がそれを受けて教えを人々に伝え、また近江国の[[望月幸智]]([[大石凝真素美]]の祖父)が諸国に伝えた──ということが書いてある。 | ||
** [[宇佐美景堂]]は、[[大石凝真素美]]から聞いた話として、中村孝道は日向国の人であると述べている。<ref>[[鎌田東二]]『言霊の思想』p143</ref> | |||
* 中村孝道は東京に住んでいたこともある。『言霊或問』は「江戸四ッ谷鮫ヶ橋(さめがはし)」(現在の新宿区若葉二丁目・三丁目・南元町の一帯<ref>須賀神社の東~南側</ref>)の「産霊舎」に滞在中に書いたものである。 | * 中村孝道は東京に住んでいたこともある。『言霊或問』は「江戸四ッ谷鮫ヶ橋(さめがはし)」(現在の新宿区若葉二丁目・三丁目・南元町の一帯<ref>須賀神社の東~南側</ref>)の「産霊舎」に滞在中に書いたものである。 | ||