「伊都能売観音像 (楽焼)」の版間の差分
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2018年11月21日 (水) 23:10時点における最新版
この項目では、王仁三郎が製作した陶製の伊都能売観音像について説明しています。その他については「伊都能売観音像 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
伊都能売観音像(いづのめかんのんぞう)は、王仁三郎が昭和6年(1931年)7月頃に製作した陶製の像。「聖観音像」とも呼ばれる。高さ約150cm、胴回り約140cm、重さ約110kgの巨大な楽焼の作品で、王仁三郎の等身大に造られた。
昭和6年(1931年)8月、王仁三郎の還暦を祝う「更生祭」の際に、天恩郷の更生館で王仁三郎の作品が多数展示されたが、その入口正面に置かれてお披露目された。
第二次大本事件によって行方不明となったが、王仁三郎の昇天直後の昭和23年春に発見された。山梨県甲府市で開かれた防犯展に大本事件押収品(開祖聖像)を地元の信徒が見つけ、それがきっかけとなり、東京警視庁内に伊都能売観音像が保管されていることが判明したのである。同年10月21日[1]に2つとも返還され、天恩郷に帰って来た[2]。
所々傷ついたり欠けたりしていたが、佐々木松楽によって修復され、開教60周年の昭和27年(1952年)1月、瑞祥館の王仁三郎の部屋に御神体として安置された。
昭和39年(1964年)3月、大本会館に移動。昭和57年(1982年)2月、作品展示室へ移され、半世紀ぶりに公開された。
平成7年(1995年)1月、阪神淡路大震災によって台座の一部が破損。その後、大本資料館内で保管されていたが、平成24年(2012年)にみろく会館が完成し、その2階「ギャラリーおほもと」内に免震台に乗せて再び展示されることとなった。
〔『みろくのよ』平成24年(2012年)8月号p44「瑞霊真如聖師・楽焼「伊都能売観音像」」をもとに作成〕