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[[ファイル:王仁の若松分監出監の日.jpg|thumb|〈右端より二人目本書著者〉という説明書きがある。]]
'''上野公園'''(うえのこうえん)は、[[出口王仁三郎]]の筆名。大正13年(1924年)の[[入蒙]]後に書いた『[[王仁蒙古入記]]』をこの筆名で発表した。
'''上野公園'''(うえのこうえん)は、[[出口王仁三郎]]の筆名。大正13年(1924年)の[[入蒙]]後に書いた『[[王仁蒙古入記]]』をこの筆名で発表した。


== 概要 ==
「九十九日の獄舎生活を了へて、十一月一日漸く綾部に帰り、霊界物語第六十七巻として蒙古入の梗概を口述し、表面上野公園著として天下に発表する事とした」〔{{rm09|68|0001|序文}}〕
「九十九日の獄舎生活を了へて、十一月一日漸く綾部に帰り、霊界物語第六十七巻として蒙古入の梗概を口述し、表面上野公園著として天下に発表する事とした」〔{{rm09|68|0001|序文}}〕


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また、『[[王仁蒙古入記]]』の[[松村真澄]]による「序」には「上野公園君は(略)蚕都新聞の孤塁を死守して、権勢におもねらず、名利に走らぬ所が、僕は好きなのだ。一日山なす原稿を抱えて来訪し……どうです……と差し出し、得意の笑みを満面漲らして、度の強い近眼鏡(めがね)越しに僕の顔を熟視した。それがこの王仁の蒙古入りの原稿であった」と書いてあり、王仁三郎とは別人のような描写がしてある。
また、『[[王仁蒙古入記]]』の[[松村真澄]]による「序」には「上野公園君は(略)蚕都新聞の孤塁を死守して、権勢におもねらず、名利に走らぬ所が、僕は好きなのだ。一日山なす原稿を抱えて来訪し……どうです……と差し出し、得意の笑みを満面漲らして、度の強い近眼鏡(めがね)越しに僕の顔を熟視した。それがこの王仁の蒙古入りの原稿であった」と書いてあり、王仁三郎とは別人のような描写がしてある。
『[[王仁蒙古入記]]』の巻頭口絵の一枚には、「本書著者」(上野公園)だという説明がある。(写真参照)


該当する人物の本名は不明。また上野公園とは東京の上野公園のことなのかも不明。
該当する人物の本名は不明。また上野公園とは東京の上野公園のことなのかも不明。