「月見里稲荷神社」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
(同じ利用者による、間の6版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
'''月見里稲荷神社'''(やまなしいなりじんじゃ)(略して月見里神社)は、静岡・[[清水]]にある神社。[[長沢雄楯]]が神職をしていた。 | '''月見里稲荷神社'''(やまなしいなりじんじゃ)(略して月見里神社)は、静岡・[[清水]]にある神社。[[長沢雄楯]]が神職をしていた。 | ||
[[ファイル:月見里笠森稲荷神社1.jpg||thumb||月見里笠森稲荷神社 平成16年(2004年)10月2日撮影]] | |||
[[ファイル:月見里笠森稲荷神社2.jpg||thumb||月見里笠森稲荷神社]] | |||
[[ファイル:月見里笠森稲荷神社3.jpg||thumb||月見里笠森稲荷神社]] | |||
[[ファイル:月見里笠森稲荷神社4.jpg||thumb||月見里笠森稲荷神社]] | |||
[[ファイル:三五教駿河主会.jpg||thumb||月見里笠森稲荷神社のすぐ近くにある三五教駿河主会 平成16年(2004年)10月2日撮影]] | |||
[[上田喜三郎]]は、神社附属の[[稲荷講社]]に加入し、長沢雄楯から霊学を学ぶため、何度か神社を訪れている。→詳細は「[[稲荷講社]]」「[[長沢雄楯]]」を見よ | [[上田喜三郎]]は、神社附属の[[稲荷講社]]に加入し、長沢雄楯から霊学を学ぶため、何度か神社を訪れている。→詳細は「[[稲荷講社]]」「[[長沢雄楯]]」を見よ | ||
15行目: | 21行目: | ||
== 中野与之助の「三五教」 == | == 中野与之助の「三五教」 == | ||
大本信者だった[[中野与之助]]は昭和24年(1949年)、清水市にて「[[三五教 (中野与之助)|三五教]]」という新宗教を興すが、本部を月見里稲荷神社のすぐ近くに置いた。開教の由来として──明治32年(1899年)春、長沢雄楯が神社で神懸かりの修行をした際に「今から50年後に三五と書いてあなないという世界的な宗教がここに生まれる」という神示があった。長沢に師事した中野は神示の通り50年後の昭和24年4月4日に開教した──とする。<ref>三五教公式サイトの「[https://www.ananaikyo.jp/about-kaikyo 開教の由来] | 大本信者だった[[中野与之助]]は昭和24年(1949年)、清水市にて「[[三五教 (中野与之助)|三五教]]」という新宗教を興すが、本部を月見里稲荷神社のすぐ近くに置いた。開教の由来として──明治32年(1899年)春、長沢雄楯が神社で神懸かりの修行をした際に「今から50年後に三五と書いてあなないという世界的な宗教がここに生まれる」という神示があった。長沢に師事した中野は神示の通り50年後の昭和24年4月4日に開教した──とする。<ref>三五教公式サイトの「[https://www.ananaikyo.jp/about-kaikyo 開教の由来]」:「明治32年春、長澤翁が審神者となり、天宇受売大神の鎮まり給う月見里(やまなし)神社において神懸りの修行をされた折に、「今から50年後に三五と書いてあなないという世界的な宗教がここに生まれる」という神示がありました。縁あって長澤翁に師事、霊学を学んだ中野與之助開祖は、鎮魂帰神の神法伝授によって神人合一の道を感得し、人類の精神教化をはかることこそ世界を救済する道であることを確信。やがて長澤翁より霊学の奥義のすべてを伝授され、艱難辛苦の中に、更なる修行を経て開教したのが、奇しくも神示の通り、50年後の昭和24年4月4日でありました。」(2021年10月31日閲覧)</ref> | ||
現在は掛川市に本部がある。 | 現在は掛川市に本部がある。 | ||
23行目: | 29行目: | ||
== 外部リンク == | == 外部リンク == | ||
* | * {{wp|不二見村}} | ||
* [https://www.ananaikyo.jp/ 宗教法人三五教](公式サイト) | * [https://www.ananaikyo.jp/ 宗教法人三五教](公式サイト) | ||
{{デフォルトソート:やまなしいなりしんしや}} | {{デフォルトソート:やまなしいなりしんしや}} | ||
[[Category:神社]] | [[Category:神社]] | ||
[[Category:月見里稲荷神社|*]] | |||
[[Category:霊界物語の神社]] | [[Category:霊界物語の神社]] | ||
[[Category:秀逸な記事]] |