「第一次大本事件」の版間の差分
| (同じ利用者による、間の14版が非表示) | |||
| 1行目: | 1行目: | ||
[[ファイル:出口王仁三郎と浅野和三郎.jpg|thumb|第一次大本事件の裁判で大阪控訴院に出廷する王仁三郎(左)と[[浅野和三郎]](右)大正11年6月乃至13年7月]] | [[ファイル:出口王仁三郎と浅野和三郎.jpg|thumb|第一次大本事件の裁判で大阪控訴院に出廷する王仁三郎(左)と[[浅野和三郎]](右)大正11年6月乃至13年7月]] | ||
| 12行目: | 11行目: | ||
* 出口王仁三郎は[[不敬罪]]で懲役5年の判決を受けた。これは思想犯罪としては極刑である<ref>刑法第73~76条(昭和22年に削除)の規定では、天皇・皇族の身体に危害を加えた場合は死刑または無期懲役となるが、それ以外の不敬行為については懲役5年が最高刑である。[https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%88%91%E6%B3%95_(%E5%85%AC%E5%B8%83%E6%99%82)#s2-1 刑法 (公布時)] - ウィキソース</ref>。だが、大審院で審理中に大正天皇の崩御に伴う[[大赦令]]によって免訴となり法的に無罪となった。 | * 出口王仁三郎は[[不敬罪]]で懲役5年の判決を受けた。これは思想犯罪としては極刑である<ref>刑法第73~76条(昭和22年に削除)の規定では、天皇・皇族の身体に危害を加えた場合は死刑または無期懲役となるが、それ以外の不敬行為については懲役5年が最高刑である。[https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%88%91%E6%B3%95_(%E5%85%AC%E5%B8%83%E6%99%82)#s2-1 刑法 (公布時)] - ウィキソース</ref>。だが、大審院で審理中に大正天皇の崩御に伴う[[大赦令]]によって免訴となり法的に無罪となった。 | ||
* [[第二次大本事件]]では当局により大本の活動は一切禁止された。しかし第一次大本事件では検挙後も大本の活動は進展している。マスコミ対策も異なり、第二次では当局は検挙直後から新聞に大々的な報道をさせて大本のイメージダウンを謀ったが、第一次では検挙直後は報道をさせず3ヶ月後の予審決定時から新聞報道を解禁した。 | * [[第二次大本事件]]では当局により大本の活動は一切禁止された。しかし第一次大本事件では検挙後も大本の活動は進展している。マスコミ対策も異なり、第二次では当局は検挙直後から新聞に大々的な報道をさせて大本のイメージダウンを謀ったが、第一次では検挙直後は報道をさせず3ヶ月後の予審決定時から新聞報道を解禁した。 | ||
* それまで田舎の小さな教団に過ぎなかった大本が新聞報道によってその存在が一気に全国に知られ、見物人や参拝者が増加した<ref>新聞報道が解禁されたのは大正10年5月10日だが、「大本年表」の5月23日の項には〈昨今、大本見物人二、三〇〇〇人を算す〉と記されている。</ref>。大本の勢力を削ごうという当局の思惑とは異なり、弾圧によって大本の知名度は上がり、ますます勢力が拡大するきっかけになった。 | * それまで田舎の小さな教団に過ぎなかった大本が新聞報道によってその存在が一気に全国に知られ、見物人や参拝者が増加した<ref>新聞報道が解禁されたのは大正10年5月10日だが、「大本年表」の5月23日の項には〈昨今、大本見物人二、三〇〇〇人を算す〉と記されている。</ref>。大本の勢力を削ごうという当局の思惑とは異なり、弾圧によって大本の知名度は上がり、ますます勢力が拡大するきっかけになった。<ref>王仁三郎は検挙の際に「大本はいじればいじるほど大きくなる」と猥談交じりで言い放ったという〔『[[巨人出口王仁三郎]]』天声社版、320頁〕。また王仁三郎は昭和19年に「(大本は)叩かるれば叩かれる程大きくなる」とも語っている〔『[[新月の光]]』0943「大本は近衛さんの反対」〕。</ref> | ||
* 弾圧後、[[大本神諭]]を独自に解釈する一部の幹部が大本を離教した。それにより王仁三郎が教団の主導権を握ることが出来るようになった。また王仁三郎は大本神諭に代わる新たな教典として[[霊界物語]]の著述を開始した。この事件は大本教団にとっての「[[立替え立直し]]」となった。 | * 弾圧後、[[大本神諭]]を独自に解釈する一部の幹部が大本を離教した。それにより王仁三郎が教団の主導権を握ることが出来るようになった。また王仁三郎は大本神諭に代わる新たな教典として[[霊界物語]]の著述を開始した。この事件は大本教団にとっての「[[立替え立直し]]」となった。 | ||
== | == 概史 == | ||
〔『[[大本七十年史]] 上巻』{{obc|B195401c3|第三編}} | 〔『[[大本七十年史]] 上巻』{{obc|B195401c3|第三編}}を主な資料として作成した〕 | ||
=== 事件の背景 === | === 事件の背景 === | ||
| 89行目: | 88行目: | ||
[[ファイル:正月五日天.jpg|thumb|100px|「正月五日天」の書。王仁三郎が第一次大本事件を予言したものだと言われる。]] | [[ファイル:正月五日天.jpg|thumb|100px|「正月五日天」の書。王仁三郎が第一次大本事件を予言したものだと言われる。]] | ||
〔「[[大本年表]] | 〔「[[大本年表]]」を主な資料として作成した〕 | ||
【大正10年(1921年)辛酉】 | 【大正10年(1921年)辛酉】 | ||
* 2月12日(旧1月5日)(土曜):[[出口王仁三郎]]、[[浅野和三郎]]、[[吉田祐定]](『[[神霊界]]』発行兼編集人)の3名が検挙される。 | * 2月12日(旧1月5日)(土曜):[[出口王仁三郎]]、[[浅野和三郎]]、[[吉田祐定]](『[[神霊界]]』発行兼編集人)の3名が検挙される。 | ||
** | ** 12日未明、検事総長・[[平沼騏一郎]]の指示を受けた京都府警察部長・[[藤沼庄平]]は、予審判事・検事らと共に、武装警官200人を動員して大本を襲った。綾部・亀岡・京都・八木など20数ヶ所が、[[不敬罪]]及び[[新聞紙法]]違反の容疑で家宅捜査され、筆先の全部と御神体の一部が押収された。<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c3111|事件のあらまし}}」</ref> | ||
** 浅野と吉田は綾部の自宅で検挙された。王仁三郎は朝9時半頃、大阪梅田の[[大正日日新聞社]]で検挙された。王仁三郎と浅野の容疑は[[不敬罪]]及び[[新聞紙法]]違反、吉田は新聞紙法違反。 | |||
** 3人は直ちに京都監獄未決監に収監された。(吉田は4月19日に保釈出獄、王仁三郎と浅野は6月17日に責付出獄した) | ** 3人は直ちに京都監獄未決監に収監された。(吉田は4月19日に保釈出獄、王仁三郎と浅野は6月17日に責付出獄した) | ||
** 検挙当初から当局により報道が規制され、新聞報道は行われなかった<ref>[[新聞紙法]]第19条に基づく新聞記事差止。『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6213|「邪教」との断定}}」末尾の記述を参照。</ref>。 | ** 検挙当初から当局により報道が規制され、新聞報道は行われなかった<ref>[[新聞紙法]]第19条に基づく新聞記事差止。『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6213|「邪教」との断定}}」末尾の記述を参照。</ref>。 | ||
| 99行目: | 99行目: | ||
* 4月19日:吉田が保釈出獄。 | * 4月19日:吉田が保釈出獄。 | ||
* 5月10日:予審が終結する。新聞記事差止解禁。各紙が大本事件を大々的に報じる。 | * 5月10日:予審が終結する。新聞記事差止解禁。各紙が大本事件を大々的に報じる。 | ||
** 報道内容はいずれも悪意ある論調で──大本は表面には皇室中心主義を標榜しているが、その正体は国家転覆をたくらむ団体で、内乱を準備し、反逆と僭上の大陰謀団である──というものだった<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c3222|予審決定}}」</ref>。「戦燥すべき大陰謀を企てた大本教は奇怪な正体を暴露した」「命懸で地下の秘密室を探る、動かぬ黒い影は死人か? 咄怪物!」「竹槍十万本の陰謀団」「十人生き埋めの秘密あばかれる」「伏魔殿の正体暴露」など、記事は不敬事件の核心には触れず、怪奇に満ちた捏造記事で埋められていた<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c3226|記事解禁と批判}}」</ref>。 | |||
* 5月11日:予審決定<ref>予審決定とは予審の判決のようなもの。</ref>が発表される(公判に付すという決定)。 | * 5月11日:予審決定<ref>予審決定とは予審の判決のようなもの。</ref>が発表される(公判に付すという決定)。 | ||
* 6月17日:王仁三郎と浅野が責付出獄。126日間の獄中生活が終わる。 | * 6月17日:王仁三郎と浅野が責付出獄。126日間の獄中生活が終わる。 | ||
| 105行目: | 106行目: | ||
* 7月27日:神示によって[[本宮山神殿]]に、御三体の大神様仮鎮座の祭典執行。 | * 7月27日:神示によって[[本宮山神殿]]に、御三体の大神様仮鎮座の祭典執行。 | ||
* 9月16日:一審公判が京都地裁で始まる。 | * 9月16日:一審公判が京都地裁で始まる。 | ||
* | ** 求刑は、王仁三郎と浅野に対して不敬罪で懲役5年。吉田を含め3被告に対して新聞紙法違反でそれぞれ禁錮2ヶ月・罰金50円。弁護側はいずれも無罪を主張した。<ref name="B195401c3232">『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c3232|第一審}}」</ref> | ||
* 10月5日:一審判決。王仁三郎は不敬罪で懲役5年、浅野は不敬罪で懲役10ヶ月、吉田は新聞紙法違反で禁錮3ヶ月・罰金150円(編集人、発行人、印刷人としてそれぞれ禁錮1ヶ月・罰金50円)の有罪判決が下された。直ちに控訴する。<ref name="B195401c3232" /> | |||
* 10月11日:王仁三郎は京都府庁で[[本宮山神殿]]取毀命令を受ける。 | * 10月11日:王仁三郎は京都府庁で[[本宮山神殿]]取毀命令を受ける。 | ||
* 10月14日:大改革発表。王仁三郎と二代教主は隠退し、直日が三代教主に就任。「[[皇道大本]]」を「大本」に改称。 | * 10月14日:大改革発表。王仁三郎と二代教主は隠退し、直日が三代教主に就任。「[[皇道大本]]」を「大本」に改称。 | ||
* 10月17日<ref>七十年史などでは16日になっている。「[[霊界物語#著述の動機]]」の脚注参照。</ref>:開祖の神霊が王仁三郎に霊界の消息の発表を厳しく督促。 | * 10月17日<ref>七十年史などでは16日になっている。「[[霊界物語#著述の動機]]」の脚注参照。</ref>:開祖の神霊が王仁三郎に霊界の消息の発表を厳しく督促。 | ||
* | * 10月18日(旧9月18日):[[霊界物語]]口述開始。 | ||
* 10月20日:本宮山神殿取毀工事開始。27日に工事完了。 | * 10月20日:本宮山神殿取毀工事開始。27日に工事完了。 | ||
| 119行目: | 121行目: | ||
* 6月21日:[[パインタラの法難]]。 | * 6月21日:[[パインタラの法難]]。 | ||
* 7月17日:17日付で大阪控訴院が王仁三郎の責付を取り消す。 | * 7月17日:17日付で大阪控訴院が王仁三郎の責付を取り消す。 | ||
** 王仁三郎は浅野と共に大正10年6月17日、[[責付出獄]]したが、京都府以外に旅行する時には必ず当局の許可を得なければならなかった。しかし王仁三郎は大正13年2月13日、秘かに出国して蒙古を目指し大陸に渡ってしまった。そのため7月17日、大阪控訴院は王仁三郎の責付を取り消した。それにより王仁三郎は帰国後、再び収監されることになった。<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c3228|責付出獄}}」、「{{obc|B195401c4312|入蒙の目的}}」、「{{obc|B195401c4341|再入監}}」</ref> | |||
* 7月21日:二審判決。王仁三郎は一審通り懲役5年。直ちに上告。 | * 7月21日:二審判決。王仁三郎は一審通り懲役5年。直ちに上告。 | ||
* 7月25日:王仁三郎は門司に到着。 | * 7月25日:王仁三郎は門司に到着。 | ||
| 129行目: | 132行目: | ||
【昭和2年(1927年)】 | 【昭和2年(1927年)】 | ||
* 5月17日:[[大赦令]]により原審破棄免訴。 | * 5月17日:[[大赦令]]により原審破棄免訴。 | ||
* 5月27日:大本事件[[開窟奉賛祭]]。<ref>開窟とは、事件が起きて大本は真っ暗がりになっていたが、事件が解決し岩戸が開けた、世が明けたということを意味している。そのお礼の祭典。〔『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c4445|大審院の判決}}」〕〔『[[大本史料集成]]3』「{{obc|B195503c220202|地裁公判速記録(2)}}」〕</ref> | |||
== 関連項目 == | == 関連項目 == | ||
* [[大本事件]] | * [[大本事件]] | ||
* [[第二次大本事件]] | ** [[第二次大本事件]] | ||
* [[第三次大本事件]] | ** [[第三次大本事件]] | ||
== 脚注 == | == 脚注 == | ||
<references/> | <references/> | ||
{{デフォルトソート: | {{デフォルトソート:たい1しおおもとしけん}} | ||
[[Category:出来事]] | [[Category:出来事]] | ||
[[Category:第一次大本事件|*]] | [[Category:第一次大本事件|*]] | ||