「愛善郷」の版間の差分
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[[ファイル:愛善郷3.jpg|thumb| | [[ファイル:愛善郷3.jpg|thumb|愛善郷([[竹田城]]址)山上]] | ||
'''愛善郷'''(あいぜんきょう)とは、昭和7年に兵庫県竹田町から大本に献納された[[竹田城]]址のこと。[[出口王仁三郎]]が命名した。竹田城址を大本の施設として整備する予定だったが、[[第二次大本事件]]によって竹田町に返還された。 | '''愛善郷'''(あいぜんきょう)とは、昭和7年に兵庫県竹田町から大本に献納された[[竹田城]]址のこと。[[出口王仁三郎]]が命名した。竹田城址を大本の施設として整備する予定だったが、[[第二次大本事件]]によって竹田町に返還された。 | ||
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== 国常立尊の神霊 == | == 国常立尊の神霊 == | ||
[[ファイル:竹田城址記念写真(昭和7年10月18日).jpg|thumb|[[国常立尊]]の神霊が写った写真]] | |||
昭和7年(1932年)10月18日、王仁三郎・澄子の竹田初巡教(虎臥山開き)の歓迎式の際、竹田城址で石垣を背景にして王仁三郎・澄子を中心に記念写真を撮影した。現像してみると、駕籠に乗った王仁三郎の後ろ上方、石垣上にはっきりと何かの大きな霊が写っていた。22日、[[島根別院]]に滞在していた王仁三郎にその写真を届けて見せたところ、それは国常立尊のご神像の顕現で、王仁三郎がよく揮毫する国常立尊ご神像の服装と同じである、ということだった。これについて王仁三郎は「虎臥城址カメラにとれば神代の神写りしと町人さわげり」と歌を詠んでいる。<ref>『大本竹田別院五十年誌』24頁</ref> | 昭和7年(1932年)10月18日、王仁三郎・澄子の竹田初巡教(虎臥山開き)の歓迎式の際、竹田城址で石垣を背景にして王仁三郎・澄子を中心に記念写真を撮影した。現像してみると、駕籠に乗った王仁三郎の後ろ上方、石垣上にはっきりと何かの大きな霊が写っていた。22日、[[島根別院]]に滞在していた王仁三郎にその写真を届けて見せたところ、それは国常立尊のご神像の顕現で、王仁三郎がよく揮毫する国常立尊ご神像の服装と同じである、ということだった。これについて王仁三郎は「虎臥城址カメラにとれば神代の神写りしと町人さわげり」と歌を詠んでいる。<ref>『大本竹田別院五十年誌』24頁</ref> | ||