「タダアイ事件」の版間の差分

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上田喜三郎は[[穴太寺]]の中にある[[偕行小学校]]に通っていた。
上田喜三郎は[[穴太寺]]の中にある[[偕行小学校]]に通っていた。


明治16年(1883年)3月<ref>年月は「大本年表」による</ref>(12歳くらい)教師の[[吉田有年]]が修身の教科書を生徒に読み聞かせている時に、大岡越前守忠相(タダスケ)の名を「タダアイ」と読んだ。喜三郎はすぐに椅子から立って読み間違いを指摘したが、吉田は聞き入れなかった。喜三郎は一歩も譲らず「タダスケ」だと主張すると、吉田は立腹して「ちょっと来い」と喜三郎をせっかんするため手首を引っ張った。喜三郎は隣室で教鞭を執っていた校長([[出口直道]])を呼んだ。校長は事情を聞くと「タダスケが正しい」と吉田に注意した。
明治16年(1883年)3月<ref>年月は「大本年表」による</ref>(12歳くらい)教師の[[吉田有年]]が修身の教科書を生徒に読み聞かせている時に、大岡越前守忠相(タダスケ)の名を「タダアイ」と読んだ。喜三郎はすぐに椅子から立って読み間違いを指摘したが、吉田は聞き入れなかった。喜三郎は一歩も譲らず「タダスケ」だと主張すると、吉田は立腹して「ちょっと来い」と喜三郎をせっかんするため手首を引っ張った。喜三郎は隣室で教鞭を執っていた校長([[出口直道]]<ref>出口姓だが綾部の出口家とは無関係。</ref>)を呼んだ。校長は事情を聞くと「タダスケが正しい」と吉田に注意した。


吉田は恥を掻かされたことで喜三郎を逆恨みし、以後は喜三郎を虐待したり暴言を吐くようになった。
吉田は恥を掻かされたことで喜三郎を逆恨みし、以後は喜三郎を虐待したり暴言を吐くようになった。