「十ケ月暦」の版間の差分
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* 明治31年(1898年)にすでにこの十ケ月暦の大意を発表しておいた。 | * 明治31年(1898年)にすでにこの十ケ月暦の大意を発表しておいた。 | ||
* 国際連盟では三つの改暦案のうち第三案の十三ヶ月案が採用されるであろう。世界は一度はその暦法を使うことになるが、しかし長くは続かず、やがて、神示による自分の案(十ケ月暦)が採用されるはずである。 | * 国際連盟では三つの改暦案のうち第三案の十三ヶ月案が採用されるであろう。世界は一度はその暦法を使うことになるが、しかし長くは続かず、やがて、神示による自分の案(十ケ月暦)が採用されるはずである。 | ||
== 問題点 == | |||
十ケ月暦は恒久暦であり、グレゴリオ暦の4つの欠点が全て解決されている。しかし1年を10ヶ月にするため、四半期を計算するのに不便である。 | |||
立春を1月1日にするということは、立秋は6月1日となる。また、立夏は3月半ば(18日頃?)となり、立冬は8月半ば(18日頃?)となる。夏至は4月下旬(34日頃?)、冬至は9月下旬(34日頃?)となる。天保暦からグレゴリオ暦への改暦で起きた問題と同様、月と季節感が現在とは全く異ることになる。 | |||
== 反響 == | == 反響 == | ||
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9月5日に[[中外日報]]社(京都)主催により大勢の宗教関係者が招かれて暦法改正座談会が開かれた。記事の見出しに〈改暦案に対する外務当局の怠慢を攻撃し大勢、尚早論に傾く〉と書かれてあり、国際連盟の改暦案に否定的な集まりであった。この座談会に出席した[[出口宇知麿]]は大本には独自の改暦案があると発言した。〔[[中外日報]]9月8日報道、『[[更生日記]] 九の巻』71頁、{{ndldl|1137614/1/49}}〕 | 9月5日に[[中外日報]]社(京都)主催により大勢の宗教関係者が招かれて暦法改正座談会が開かれた。記事の見出しに〈改暦案に対する外務当局の怠慢を攻撃し大勢、尚早論に傾く〉と書かれてあり、国際連盟の改暦案に否定的な集まりであった。この座談会に出席した[[出口宇知麿]]は大本には独自の改暦案があると発言した。〔[[中外日報]]9月8日報道、『[[更生日記]] 九の巻』71頁、{{ndldl|1137614/1/49}}〕 | ||
9月9日、[[丹波毎日新聞]](綾部)は王仁三郎の十ケ月暦を具体的に紹介し、〈該案は人類愛善会欧羅巴(注・ヨーロッパ)本部を通じて欧米各国の新聞紙上に発表しセンセーシヨンを捲き起してゐる〉〈因に出口氏は本案は神示の暦法として国際的に統一さるるものとの固き自信を有してゐる〉と報道している。〔丹波毎日新聞9月9日報道、『[[更生日記]] 九の巻』75頁、{{ndldl|1137614/1/52}}〕 | |||
9月10日、[[北国夕刊新聞]](北陸)、鹿児島新聞、丹州時報(舞鶴)でも王仁三郎の十ケ月暦が報道されたようである。〔『[[更生日記]] 九の巻』81頁、{{ndldl|1137614/1/55}}〕 | 9月10日、[[北国夕刊新聞]](北陸)、鹿児島新聞、丹州時報(舞鶴)でも王仁三郎の十ケ月暦が報道されたようである。〔『[[更生日記]] 九の巻』81頁、{{ndldl|1137614/1/55}}〕 | ||
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