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'''数運'''(すううん)とは、[[出口王仁三郎]]と社会の事象との間に示された数字の一致による神秘現象。
'''数運'''(すううん)とは、[[出口王仁三郎]]と社会の事象との間に示された数字の一致による神秘現象。


[[第二次大本事件]]で獄中にいた王仁三郎に対して、昭和13年(1938)2月18日、中国の[[瀋陽道院]]で次のような[[壇訓]]が下った。「数運は天運と相(あい)合(がっ)す。[[尋仁]](じんじん)は化世(かせい)の大責(たいせき)を負う者、必ず数運と天運の輪転に循(したが)い、以て世間諸劫(しょごう)の障(さわり)を受(う)く也」<ref>[[出口和明]][[出口なお王仁三郎の予言・確言]]』p.240</ref>。おそらく「数運」という言葉はこの壇訓に基づくものだと思われる。これ以前に王仁三郎が「数運」という言葉を用いている例は見当たらない。
[[第二次大本事件]]で獄中にいた王仁三郎に対して、昭和13年(1938)2月18日(旧[[1月19日]])、中国の[[瀋陽道院]]で次のような[[壇訓]]が下った。「数運は天運と相(あい)合(がっ)す。[[尋仁]](じんじん)<ref>尋仁は[[出口王仁三郎]]のこと。</ref>は化世(かせい)の大責(たいせき)を負う者。必ず数運と天道の輪転に循(したが)って、以て世間諸劫(しょごう)の障(さわり)を受(う)くるなり」<ref>「[https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=Z9050 道院壇訓 昭和13年2月18日 瀋陽道院]」 - 霊界物語ネット</ref> <ref>この壇訓は王仁三郎の二女・[[梅野]]が(訴訟費用を集めるため)満洲に渡った時に降りたもの。『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6514|海外の信者}}」:〈満州(東北)では、昭和一三年の二月に出口むめのが渡満したとき、奉天の瀋陽道院で聖師に関する壇訓があり、希望をいだいて帰国した。〉</ref>。おそらく「数運」という言葉はこの壇訓に基づくものだと思われる。これ以前に王仁三郎が「数運」という言葉を用いている例は見当たらない。


== 実例 ==
== 実例 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[出口和明]]『[[出口なお王仁三郎の予言・確言]]』pp.240-245
* [[出口和明]]『[[出口なお王仁三郎の予言・確言]]』pp.240-245
* [[出口和明]]ほか『[[予言と神話]]』pp.272-280
* [[出口和明]]ほか『[[予言と神話]]』pp.272-290
** [[出口和明]]『[[スサノオと出口王仁三郎]]』pp.179-201(内容は『予言と神話』と同じ)
* [[土井靖都]]「数運は天運と相合す」『[[神の国 (1950)|神の国]]』昭和26年(1951年)12月号、pp.16-22
* [[土井靖都]]「数運は天運と相合す」『[[神の国 (1950)|神の国]]』昭和26年(1951年)12月号、pp.16-22
* [[土井靖都]]「救世主の證しと道院の壇訓」『[[神の国 (1950)|神の国]]』昭和27年(1952年)12月号、pp.8-16
* [[土井靖都]]「救世主のあかし」『[[神の国 (1950)|神の国]]』昭和30年(1955年)8月号、pp.18-23
* [[土井靖都]]「救世主のあかし」『[[神の国 (1950)|神の国]]』昭和30年(1955年)8月号、pp.18-23
* [[山田緑]]「偽救い主跳梁す─アメリカの横顔─」『[[おほもと]]』昭和31年(1956年)11月号、pp.114-117


== 脚注 ==
== 脚注 ==