「旭形亀太郎」の版間の差分

 
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* 天保13年3月25日(1842年5月5日)大阪の島ノ内で生まれる。父・速水清兵衛は職人。祖父は北面武士<ref>京都・仙洞御所を警備する武士。</ref>だった。祖父母は離婚しており、亀太郎は祖母に育てられた。
* 天保13年3月25日(1842年5月5日)大阪の島ノ内で生まれる。父・速水清兵衛は職人。祖父は北面武士<ref>京都・仙洞御所を警備する武士。</ref>だった。祖父母は離婚しており、亀太郎は祖母に育てられた。
* 嘉永5年(1852年)11歳、剣術と柔術を習い出す。15歳でどちらも免許を貰う。
* 嘉永5年(1852年)11歳、剣術と柔術を習い出す。15歳でどちらも免許を貰う。
* 安政年間に入り外国艦が頻繁に現われるようになると、幕府は警備を強化した。土佐藩は大阪の住吉に出陣して砲台を築いた。亀太郎は自ら土佐藩に出入りするようになる。(以後、幕末から明治初期にかけて亀太郎は尊王攘夷派の間諜や密使のような仕事をたびたび行った<ref>旭形本人は『[[史談会速記録]]』で間諜ではないと言っているが、内容的には間諜のような仕事である。また「小伝」(旭形亀太郎小伝)には、幕末に勤王の志士たちの間を行き来して「密使」として活動したことは〈君の生涯に特筆すべきの事蹟とす〉と記されている。幕府の監視があるため志士たちは往来して密議を凝らすことが出来なかった。だが旭形は力士なので疑われずに往来することが出来たので密使として活動できた。</ref>)
* 安政年間に入り外国艦が頻繁に現われるようになると、幕府は警備を強化した。土佐藩は大阪の住吉に出陣して砲台を築いた。亀太郎は自ら土佐藩に出入りするようになる。(以後、幕末から明治初期にかけて亀太郎は尊王攘夷派の間諜や密使のような仕事をたびたび行った<ref>旭形本人は『[[史談会速記録]]』で間諜ではないと言っているが、内容的には間諜のような仕事である。また「小伝」(旭形亀太郎小伝)には、幕末に勤王の志士たちの間を行き来して「密使」として活動したことは〈君の生涯に特筆すべきの事蹟とす〉と記されている。幕府の監視があるため志士たちは往来して密議を凝らすことが出来なかった、だが旭形は力士なので疑われずに往来することが出来たので密使として活動できた、と考えることができる。</ref>)
* 長州力士隊<ref>長州諸隊(義勇軍のような部隊)の一つ。<wp>長州藩諸隊</wp></ref>が組織されると、亀太郎はそこに加わり「朝日形」と称する。隊長の命令で京都に出張し奔走する。これが亀太郎が公務に就いた最初であり、また力士の名を名乗った最初である。
* 長州力士隊<ref>長州諸隊(義勇軍のような部隊)の一つ。{{wp|長州藩諸隊}}</ref>が組織されると、亀太郎はそこに加わり「朝日形」と称する。隊長の命令で京都に出張し奔走する。これが亀太郎が公務に就いた最初であり、また力士の名を名乗った最初である。
* 文久2年(1862年)21歳、大原重徳が左衛門督<ref>宮中の門衛長官</ref>になると、12月に亀太郎は同志を集め力士隊を組織し、宮中守衛の一部を担うことを申し出る。翌年1月に許可が下り、亀太郎はその総指揮(隊長)となる。
* 文久2年(1862年)21歳、大原重徳が左衛門督<ref>宮中の門衛長官</ref>になると、12月に亀太郎は同志を集め力士隊を組織し、宮中守衛の一部を担うことを申し出る。翌年1月に許可が下り、亀太郎はその総指揮(隊長)となる。
* 元治元年(1864年)23歳、7月19日に長州の福原越後らが蹶起して禁門の変が勃発。このとき亀太郎は薩摩藩に加わり長州藩と戦う。亀太郎は宮中の守衛を命じられる(紫宸殿の後ろの石段から外を見て戦況報告をした<ref>『史談会速記録』35頁(合本361頁)</ref>)。
* 元治元年(1864年)23歳、7月19日に長州の福原越後らが蹶起して禁門の変が勃発。このとき亀太郎は薩摩藩に加わり長州藩と戦う。亀太郎は宮中の守衛を命じられる(紫宸殿の後ろの石段から外を見て戦況報告をした<ref>『史談会速記録』35頁(合本361頁)</ref>)。
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[[Category:人物]]
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