「上田吉松」の版間の差分

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「ブラブラ病」で2~3年間苦しみ、明治30年(1897年)7月21日(旧6月22日)、53歳<ref>帰幽した年齢は文献によって異なるが、「故郷乃弐拾八年」に「二十六歳の春、明治三年に斎藤氏の媒酌で、上田家の養子と成り」と書いてあり、それを基準にするなら明治30年は数えで53歳になる。</ref>で帰幽する。<ref>{{rm|37|2|葱節}}</ref> <ref>『[[聖師伝]]』「{{obc|B100800c11|父の死}}」</ref>
「ブラブラ病」で2~3年間苦しみ、明治30年(1897年)7月21日(旧6月22日)、53歳<ref>帰幽した年齢は文献によって異なるが、「故郷乃弐拾八年」に「二十六歳の春、明治三年に斎藤氏の媒酌で、上田家の養子と成り」と書いてあり、それを基準にするなら明治30年は数えで53歳になる。</ref>で帰幽する。<ref>{{rm|37|2|葱節}}</ref> <ref>『[[聖師伝]]』「{{obc|B100800c11|父の死}}」</ref>
子供は5男3女の8人いる。→「[[出口王仁三郎#兄弟姉妹]]」


== 「吉松」の読み方 ==
== 「吉松」の読み方 ==
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出口王仁三郎の祖父・上田吉松は、明治4年(1871年)12月27日(新暦1872年2月5日)に59歳<ref>『[[神霊界]]』大正10年(1921年)2月1日号p.37上9行目「祖父は五十九才で帰幽し」</ref>で帰幽した。この帰幽日について異なる解釈がある。「[[故郷乃弐拾八年]]」には「祖父の吉松は、明治四年の冬十二月廿七日に帰幽した。王仁(わたし)が誕生後六ケ月目である」と記されている<ref>同p.39</ref>。ここより前の方に(父母は)「明治四年七月十二日を以て一子を挙げた」<ref>同p.37</ref>とあるので、旧暦だと考えられる(新暦は明治6年以降)。旧12月27日は新の2月5日に該当する。しかし「大本年表」では12月27日を新暦だと解釈し、旧暦11月16日と記している<ref>「12・27(11・16)」</ref>。新暦だとすると王仁三郎が生まれた新8月27日(旧7月12日)から新12月27日までちょうど4ヶ月であり、「誕生後六ケ月目」という記述は違和感がある。旧暦なら旧7月12日から旧12月27日まで5ヶ月と15ヶ日であり、「誕生後六ケ月目」という記述でおかしくない。12月27日は旧暦と考えるのが妥当である。
出口王仁三郎の祖父・上田吉松は、明治4年(1871年)12月27日(新暦1872年2月5日)に59歳<ref>『[[神霊界]]』大正10年(1921年)2月1日号p.37上9行目「祖父は五十九才で帰幽し」</ref>で帰幽した。この帰幽日について異なる解釈がある。「[[故郷乃弐拾八年]]」には「祖父の吉松は、明治四年の冬十二月廿七日に帰幽した。王仁(わたし)が誕生後六ケ月目である」と記されている<ref>同p.39</ref>。ここより前の方に(父母は)「明治四年七月十二日を以て一子を挙げた」<ref>同p.37</ref>とあるので、旧暦だと考えられる(新暦は明治6年以降)。旧12月27日は新の2月5日に該当する。しかし「大本年表」では12月27日を新暦だと解釈し、旧暦11月16日と記している<ref>「12・27(11・16)」</ref>。新暦だとすると王仁三郎が生まれた新8月27日(旧7月12日)から新12月27日までちょうど4ヶ月であり、「誕生後六ケ月目」という記述は違和感がある。旧暦なら旧7月12日から旧12月27日まで5ヶ月と15ヶ日であり、「誕生後六ケ月目」という記述でおかしくない。12月27日は旧暦と考えるのが妥当である。
== 関連項目 ==
* [[久兵衛池事件]]:王仁三郎の父・吉松が灌漑用池の埋め立てをめぐって村人たちと対立した。


== 脚注 ==
== 脚注 ==