「建勲神社」の版間の差分

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[[ファイル:建勲神社02.jpg|thumb|建勲神社の境内図。平成22年(2010年)3月撮影。]]
 
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* [http://kenkun-jinja.org/ 建勲神社](公式サイト)
 
* [http://kenkun-jinja.org/ 建勲神社](公式サイト)
 
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* 『全国官国幣社写真帖』[https://dl.ndl.go.jp/pid/1686202/1/214 建勲神社]
  
 
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2024年6月3日 (月) 13:50時点における最新版

明治41年(1908年)頃の建勲神社。
建勲神社の鳥居。平成22年(2010年)3月撮影。
建勲神社の境内図。平成22年(2010年)3月撮影。

建勲神社(けんくんじんじゃ、たけいさおじんじゃ)は、京都・船岡山に鎮座する、織田信長を祭る神社。上田喜三郎が半年ほど神職をしていたことがある。

概要

  • 明治39年(1906年)9月、上田喜三郎皇典講究所京都分所に入学する。半年学び翌40年3月に卒業。4月、神職試験に合格し、5月、建勲神社主典となる。12月には職を辞し、伏見稲荷山御嶽教西部教庁の主事となる。
  • 霊界物語には第38巻第22章難症#第25章雑草#に出る。
  • 喜三郎が奉職したことについて『大本七十年史』は次のように評している。「「世の立替え立直し」を念願としていた王仁三郎が、日露戦争後の国内外の騒然たる情勢を黙視しうるはずはない。京都の建勲神社に奉仕したのも、また御獄教にはいって活動したのも、彼のいう「斯道家」と協力して、道義的に国家のためにつくそうとした側面の具体化であった。しかし、当時の神職のほとんどは、「一身一家の名利栄達をはかるより外に一片の報国心を有するなく」(「直霊軍」)堕落頽廃して無気力であった。」〔『大本七十年史 上巻』「王仁三郎の帰綾#」〕

神社概要

  • 住所:京都市北区紫野北舟岡町49
    • 明治期の住所は愛宕郡大宮村。大正7年(1918年)に京都市上京区に編入。昭和30年(1955年)に上京区から分区して北区が誕生。
  • 創建:明治3年(1870年)
  • 祭神:織田信長
  • 旧社格は別格官幣大社。
  • 「けんくん」は通称で、正式には「たけいさお」と呼ぶ。

関連資料

  • 大地の母 第9巻』「幣帛供進使#」、「十年目の弟子#

外部リンク