「人類愛善新聞」の版間の差分
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大正14年(1925年)10月1日創刊。月刊。発行は[[人類愛善新聞社]]。当初はタブロイド判4頁だったが、翌大正15年2月から倍版の大型4頁となる<ref>『大本七十年史 上』P776</ref>。 | 大正14年(1925年)10月1日創刊。月刊。発行は[[人類愛善新聞社]]。当初はタブロイド判4頁だったが、翌大正15年2月から倍版の大型4頁となる<ref>『大本七十年史 上』P776</ref>。 | ||
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昭和9年(1934年)3月上旬号でついに目標を達成し、104万390部となった。当時の日刊紙『大阪朝日新聞』が63万5千部、『読売新聞』が52万9千部なので、これは驚異的な数字だった。<ref>『大本七十年史 下』P17P162~163</ref> | 昭和9年(1934年)3月上旬号でついに目標を達成し、104万390部となった。当時の日刊紙『大阪朝日新聞』が63万5千部、『読売新聞』が52万9千部なので、これは驚異的な数字だった。<ref>『大本七十年史 下』P17P162~163</ref> | ||
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2022年3月29日 (火) 08:40時点における最新版
人類愛善新聞(じんるいあいぜんしんぶん)は、人類愛善会の機関紙である。
戦前
大正14年(1925年)10月1日創刊。月刊。発行は人類愛善新聞社。当初はタブロイド判4頁だったが、翌大正15年2月から倍版の大型4頁となる[1]。
昭和3年(1928年)1月からは月3回、3の日に発行する旬刊となった。各地に30数ヶ所の支社を設置、20数人の記者が任命された[2]。
王仁三郎は「人類愛善新聞が百万の購読者を得なければ国内の愛善化はむづかしい」と発言[3]。その頃の発行部数は1万部だったが、100万部の発行を目指して活動が続けられ昭和3年末には2万6千部に増加した[4]。翌昭和4年夏には11万部[5]、昭和6年秋には19万部に達した[6]。
昭和5年(1930年)からは月刊となる。昭和6年3月からはB5版16頁となり、主として大本神諭や教義の解説などを掲載し全く初めての人たちに大本を紹介する新聞として編集方針を改め、対外宣伝に活用されることになった[7]。
昭和8年(1933年)7月中旬号は47万部、昭和9年1月中旬号は73万部[8]。
昭和9年(1934年)3月上旬号でついに目標を達成し、104万390部となった。当時の日刊紙『大阪朝日新聞』が63万5千部、『読売新聞』が52万9千部なので、これは驚異的な数字だった。[9]
戦後
戦後は人類愛善会の再発会(昭和24年12月8日)により、昭和25年(1950年)1月1日付けで復刊。月刊、2万部[10]。同年9月から12月まで「世界憲法シカゴ草案」の全文を掲載した特集号を56万7千部発行した[11]。
昭和26年(1951年)5月上旬(17号)から旬刊に、11月第1週(35号)から週刊(2頁)となり、同年年末には発行部数が約3万5千部になる[12]。
昭和27年(1952年)10月からは月3回の旬刊(4頁)となる[13]。
現在
現在は年4回(1月、4月、7月、10月)発行の季刊。発行は天声社。