「小幡神社」の版間の差分
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+ | * 鎮座地:京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内1 | ||
+ | * 主祭神:[[開化天皇]](第9代天皇) | ||
+ | * 彦坐王(ひこいますのみこ)と小俣王(おまたのみこ)を配祀している。 | ||
+ | * 延喜式内社。 | ||
+ | * 社家は上田姓で、かつては京都大学名誉教授の[[上田正昭]](1927~2016年)が宮司を務めていた。 | ||
+ | * 由緒書によると、[[崇神天皇]](第10代天皇、開化天皇の第二皇子)の命で派遣された四道将軍の一人で丹波地域を治めた丹波道主命(たんばのみちのうしのみこと)が、祖父である開化天皇を主神として祀ったことに始まる。[[開化天皇]]の第三皇子・彦坐王(丹波道主命の父)と、その子・小俣王(丹波道主命の異母兄弟)の三代を奉斎している。和銅元年(708年)に丹波国司・大神朝臣狛麻呂が社殿を建立した。 | ||
+ | * 現在の社殿は天和3年(1683年)に造られたもので、京都府の登録文化財になっている。 | ||
+ | * 社宝として、全国に3幅しかないという[[円山応挙]](王仁三郎の七代前の先祖)の絵馬の一つが保存されている。 | ||
+ | * 現在は[[高熊山]]の麓の平地にあるが、[[霊界物語]]によると、上古には高熊山の山中にあった<ref>{{rm|1|1|霊山修業}}</ref>。 | ||
+ | * [[上田喜三郎]]は明治30年(1897年)8月下旬から21日間、小幡神社に夜間ひそかに参籠して神教を乞い、その最後に日に[[三大学則]]を授かった。それを授けた神霊は[[異霊彦命]](ことたまひこのみこと、[[本田親徳]]の霊)である。<ref>出口王仁三郎著『[[本教創世記]]』{{obc|B195301c09|第三章}}</ref> | ||
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* <wp>開化天皇</wp> | * <wp>開化天皇</wp> | ||
* <wp>丹波道主命</wp> | * <wp>丹波道主命</wp> |
2018年7月18日 (水) 16:16時点における版
小幡神社(おばたじんじゃ)は、出口王仁三郎が生まれた穴太の産土神社。
- 鎮座地:京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内1
- 主祭神:開化天皇(第9代天皇)
- 彦坐王(ひこいますのみこ)と小俣王(おまたのみこ)を配祀している。
- 延喜式内社。
- 社家は上田姓で、かつては京都大学名誉教授の上田正昭(1927~2016年)が宮司を務めていた。
- 由緒書によると、崇神天皇(第10代天皇、開化天皇の第二皇子)の命で派遣された四道将軍の一人で丹波地域を治めた丹波道主命(たんばのみちのうしのみこと)が、祖父である開化天皇を主神として祀ったことに始まる。開化天皇の第三皇子・彦坐王(丹波道主命の父)と、その子・小俣王(丹波道主命の異母兄弟)の三代を奉斎している。和銅元年(708年)に丹波国司・大神朝臣狛麻呂が社殿を建立した。
- 現在の社殿は天和3年(1683年)に造られたもので、京都府の登録文化財になっている。
- 社宝として、全国に3幅しかないという円山応挙(王仁三郎の七代前の先祖)の絵馬の一つが保存されている。
- 現在は高熊山の麓の平地にあるが、霊界物語によると、上古には高熊山の山中にあった[1]。
- 上田喜三郎は明治30年(1897年)8月下旬から21日間、小幡神社に夜間ひそかに参籠して神教を乞い、その最後に日に三大学則を授かった。それを授けた神霊は異霊彦命(ことたまひこのみこと、本田親徳の霊)である。[2]