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出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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[[八雲山]]の登山口にある看板。昭和40年(1965年)10月に建てられた。文面は次の通り。
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2024年7月15日 (月) 14:37時点における最新版

概要

八雲山の登山口にある看板。平成24年(2012年)撮影。

昭和40年(1965年)10月に建てられた。文面は次の通り。

和歌発祥地「八雲山」について

 出雲国八雲山は、素盞嗚尊によって
   八雲立つ出雲八重垣妻籠みに
      八重垣つくるその八重垣を
の短詩が詠われ三十一音の和歌を発祥した史跡である。以来、和歌は日本の国風《くにぶり》となり、歴代天皇はもとより国民も敷島の道を尊み学び詠い、また日本文化を貫く根本精神となった。
 伝承神話によれば、素盞嗚尊は八岐大蛇を退治されるや、この地に来り給い「我が心すがすがし」と須賀の宮居を築かれ、祝賀に妃櫛稲田姫が弓を盥《たらい》に結び梅枝で弦を打ち鳴らされた音に感動して〝八雲立つ〟の歌を詠われた。弓楽は弓太鼓と称し我が国絃楽の濫觴《はじめ》として古式〝歌祭り〟に伝わった。
 八雲山の伝承を世に顕彰したのは大本の出口王仁三郎聖師で、昭和八年(十月十日[1])次の和歌三首を刻んだ歌碑が建立された。(後、誤まれる官憲の弾圧を受け破壊されている。)
  千早ぶる神の聖跡《みあと》をしたいつつ八雲の山に吾が来つるかも
  八雲立つ出雲の歌の生れたる須賀の皇居《みやい》の八重垣のあと
  大山はみ空に霞み海は光る出雲の国は錦の秋なり
 悠久の太古最初の和歌を生んだ八雲山上の風光は今に明媚なること天下第一で、発祥の和歌に秘められた、平和のこころを伝えている。
  昭和四十年十月

    八雲山顕彰保存会

脚注

  1. 10月10日は誤り。正しくは11月10日。

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