「鶴山霊石の神秘」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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2024年7月4日 (木) 06:17時点における版

鶴山霊石の神秘(つるやまれいせきのしんぴ)は、石原雍久の著述。『おほもと』昭和48年(1973年)12月号64~71頁に掲載された。内容は題名通り、鶴山(本宮山)山頂に安置された霊石(山梨県明見村から運ばれてきた富士山の溶岩)にまつわる神秘についてである。

後ろ半分(68~71頁)には「霊石の奇蹟」という文献が収録されている。これは和田謙太郎佐藤紋次郎が語った逸話を西田豊太郎が記録したものである。佐藤が昭和18年(1943年)11月5日に湯浅仁斎と共に大阪の西田宅を訪れて物語り、11月15日に完成したことが序に記されている。[1]

前半は和田謙太郎(元・判事)が語った逸話である。延暦21年(802年)の富士山大爆発[2]により、山嶺から8里離れた山梨県南都留郡明見村(あすみむら。現・富士吉田市小明見~大明見)の舟久保邸の庭前に、霊石が飛んで来て落下した。舟久保家では「木花咲耶姫の御神霊」といして社殿を建てて霊石を祀った。〔69頁上段〕

大正8年(1919年)頃、王仁三郎は霊夢によって、霊石が舟久保邸にあることを知り、幹部役員の豊本景介に命じて譲ってもらうよう交渉させたが話がまとまらなかった。昭和8年(1933年)春、大本信者の和田謙太郎がたまたま旅先で舟久保と出会った際、霊石を大本に譲るよう熱心に頼んだところ、舟久保はそれを承諾した。〔69頁上~下段〕

富士の霊石が綾部に運ばれ、本宮山の上に安置された。王仁三郎は非常に喜んで、霊石に向かい「よう来た、よう来た、早う来たかったであろう」と言って指一本で撫でると、重量180貫(675キロ)もある霊石がコトコトと動いたので、そこに居た人々は驚いた。〔70頁上段〕

第二次大本事件でこの霊石も破壊されることになったが、土方の親方がハンマーで2~3回打ったがカンカンと響き壊れないので、壊れた他の石と一緒に土中に埋め、警察へはみな破壊したと報告した。〔65頁下段〕

「霊石の奇蹟」の後半は、佐藤紋次郎が語った逸話である。孝明天皇の御宸筆(遺勅)や切紙神示の一部分(いずれも『たまほこのひ可里』には記されていない内容である)に、皇紀2600年(昭和15年)になれば綾部の本山(モトヤマ)に神光(ヒカリ)が出るとあるが、それはどういうことか佐藤は綾部に行って調べてみた。すると次のようなことが分かった。第二次事件後の昭和14~15年の春、81歳の老婆が、本宮山の上から火が灯っている夢を見た。ある夜、実際に本宮山に火が灯っているのを見て、山に登ってみたところ、霊石から光が出ていた。本宮山山頂のお宮が事件によって壊されたことにより、「宮」が無くなって「本山」になったのである。佐藤は切紙神示が一言一句間違いのないことに驚嘆した。〔70~71頁〕

「霊石の奇蹟」を書いた一ヶ月後の昭和18年12月15日に、文章を王仁三郎に見せたところ、本宮山の霊石から発せられる光は、古事記の「天の一つ火」であると王仁三郎は教えた。〔71頁下段〕

外部リンク

脚注

  1. たまほこのひ可里』が完成したのはその三ヶ月ほど前の8月25日である。
  2. 延暦19~21年に富士山が爆発したことが日本後紀に記録されている。