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出口王仁三郎

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「王仁三郎」の名の由来
** 生家跡は現在「[[瑞泉苑]](ずいせんえん)」と名づけられ大本の施設になっている。
* 名前:出生名は「上田喜三郎(うえだ きさぶろう)」。後に「王仁三郎(おにさぶろう)」に改名し、出口家に養子に入って「出口王仁三郎」になった。 →「[[#「王仁三郎」の名の由来]]」
** 「わにさぶろう」と呼ぶのは俗称であって正式な読み方ではない。「わにさぶろう」と呼ぶのは俗称であって正式な読み方ではない。ただし本人の著述にも「王仁三郎」に「わにさぶろう」とルビを振っているものもある。
* 家族:上田家の家業は農業。
** 祖父:[[上田吉松]](きちまつ)。喜三郎が生まれて数ヶ月後に亡くなった。
== 別名・雅号 ==
王仁三郎は多数の別名や雅号を持つ。
* '''[[瑞霊真如]](ずいれいしんにょ):* [[変性女子''']](へんじょうにょし):* '''[[瑞の身魂''']](みづのみたま)、'''[[瑞霊''']](ずいれい):* '''海潮'''(かいちょう):雅号。 →「[[海潮]](かいちょう):雅号。* '''[[瑞月''']](ずいげつ):著作執筆で使っていた雅号の一つ。『[[神霊界]]』大正10年(1921年)2月号掲載「[[故郷乃二十八年]]」冒頭の「執筆の理由」<ref>『出口王仁三郎著作集 第五巻』「{{obc|B195305c103|生いたちの記}}」。「執筆の理由」は全集第八巻「故郷の弐拾八年」では省略されている。</ref>によると、神様が王仁三郎の別名を「瑞月」と付けてくれたので、その月から「瑞月」という号で執筆することにした。その執筆日は大正9年(1920年)12月26日である。* '''尋仁'''(じんじん):雅号。 →「[[尋仁]](じんじん):雅号。* '''忠勝'''(ただかつ?):雅号。 →「[[忠勝]](ただかつ?):雅号。* '''聖師'''(せいし):尊称。 →「[[聖師]](せいし):尊称。* '''[[喜三やん''']](きさやん):あだ名。* '''[[王仁さん''']](わにさん):あだ名。
== 家族 ==
* 明治37年(1904年)9月20日、町役場に改名届を出し、戸籍上「上田王仁三郎」になる。
** 王仁三郎は上田家の戸主なので改姓は出来なかった。弟の[[上田幸吉|幸吉]]が明治43年11月1日に上田家の戸主になったので、その後「出口」に改姓した。
** この当時でも改名は余程の理由がなければ出来なかった。王仁三郎は理由として──当時穴太の上田嘉市の息子が喜三郎という名前で、狭い穴太に上田喜三郎が二人いると郵便の誤配など混乱が生じる──ということを改名理由にした。王仁三郎は[[中村竹吉]]と[[四方平蔵]]に命じて役場に改名届を出させたが、この時二人は悪意から「王仁三郎」ではなく「鬼三郎」と届を出した。そのため短い期間だが、法的に「上田鬼三郎」だった時期がある。<ref>みいづ舎版『大地の母 第八巻』「みいづ舎版『[[大地の母]] 第八巻』「{{obc|B138908c10|北桑田宣教}}」p250-251</ref> <ref>回顧歌集『[[百千鳥]]』(昭和52年、天声社)380頁「実名王仁三郎」の項にそれに関連した歌が記されている。中村竹吉や四方平蔵は「古谷」「松原」という仮名(どちらがどちらなのかは不明)で記されている。〈曽我部役場に古谷松原は鬼三郎と改名とどけ差出しにけり〉〈海潮は悪神なれば鬼といふ文字が適すと人に語りをり〉他。</ref>
* 明治43年(1910年)12月29日、出口家への養子の手続きが終わり、戸籍上「出口王仁三郎」になる。
* 明治45年(1912年)2月21日、出口家の戸主となり家督相続する。
* [[出口家の家系図]]
* [[聖師]]
* [[大本に関する俗説]]:王仁三郎に関するデマ情報など。
== 外部リンク ==

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