「御嶽教」の版間の差分
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(ページの作成:「thumb|御嶽教の教服を着ている王仁三郎。 '''御嶽教'''(おんたけきょう)は、教派神道の一…」) |
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* 明治15年(1882年)に政府から公認された。 | * 明治15年(1882年)に政府から公認された。 | ||
− | * 「みたけきょう」と呼んだり<ref>たとえば平凡社『大百科事典』(昭和6~8年発行)では「オンタケキョー」([https://dl.ndl.go.jp/pid/2987693/1/376 第4巻315頁])ではなく「ミタケキョー」([https://dl.ndl.go.jp/pid/2990493/1/263 第24巻442頁])の項に掲載されている。</ref> | + | * 「みたけきょう」と呼んだり<ref>たとえば平凡社『大百科事典』(昭和6~8年発行)では「オンタケキョー」([https://dl.ndl.go.jp/pid/2987693/1/376 第4巻315頁])ではなく「ミタケキョー」([https://dl.ndl.go.jp/pid/2990493/1/263 第24巻442頁])の項に掲載されている。</ref>、「'''御岳教'''」と書く場合もある<ref>「岳」は「嶽」の新字体。</ref>。 |
* 本部(「大本庁」と呼ぶ)はかつては東京・品川にあったが、現在は奈良市にある。 | * 本部(「大本庁」と呼ぶ)はかつては東京・品川にあったが、現在は奈良市にある。 | ||
2024年6月24日 (月) 03:22時点における最新版
御嶽教(おんたけきょう)は、教派神道の一つ。出口王仁三郎は明治40年頃に御嶽教の神職・幹部を務めたことがある。また、大本の活動を合法化するために一時的に御嶽教の教会を設置したことがある。
概要
- 木曽の御嶽山を根本道場とし、御嶽大神(国常立尊、大己貴命、少名彦命の総称)を奉斎する。
- 明治15年(1882年)に政府から公認された。
- 「みたけきょう」と呼んだり[1]、「御岳教」と書く場合もある[2]。
- 本部(「大本庁」と呼ぶ)はかつては東京・品川にあったが、現在は奈良市にある。
出口王仁三郎との関わり
- 明治40年(1907年)12月18日、王仁三郎は建勲神社の主典を辞して、京都・伏見の御嶽教西部教庁の主事となる。
- 明治41年(1908年)3月10日、御嶽教の大阪大教会会長となり、生玉御嶽大教会詰となる。
- 同年 6月21日、御嶽教理事となる。
- 同年 旧6月上旬、綾部に御嶽教大本教会を設置。
- 同年 9月25日、御嶽教大本庁理事、教師検定委員、評議員大阪府教区庁長となる。
- 同年 旧9月、御嶽教大本教会を宮津に移す。
- 同年 11月13日、御嶽教に辞職届を提出する。
- 同年 11月26日、御嶽教大阪合同大教会開莚式で斎主を務める。
- 同年 12月、御嶽教を辞して帰綾する。
- 大正7年(1918年)2月13日、御嶽教第4代管長・神宮暠寿[3]が大本来訪。
- 昭和6年(1931年)12月25日、御嶽教第6代管長・中山忠徳が大本来訪。
〔以上は大本年表による〕
霊界物語第38巻第25章「雑草」#に、王仁三郎が御嶽教で活動していた経緯が記されている。それによると、〈御嶽教の仮本庁が伏見の稲荷山に宏大な館を立てて設置されてあつたので、神宮官庁(御嶽教の教庁のことか?)から頼まれて、副管長格の主事といふ役を〉務めた。王仁三郎が御嶽教に入ったのは〈御祭神が国常立命であるのと、将来神の道を布教するに付いて見学の為に、無報酬で〉務めた。