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出口大二

1,145 バイト追加, 2024年5月16日 (木)
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* 明治36年(1903年)8月8日、京都府北桑田郡周山村矢代(現在の京都市右京区京北矢代中町の辺り)に、富豪の[[吉田竜治郎]]の三男として生まれる。
** 長男は稔、二男は一(はじめ)だが、一が生まれた年の秋に稔は3歳で夭折したため、幼少時から事実上、一が長男で兌三が二男の立場にあった<ref>『[[大地の母]] 第10巻』「{{obc|B138910c03|大の字逆さま}}」</ref>。
* 大正3年(1914年)4月20日、[[弥仙山]]の山頂で、4月9日(又は10日<ref>資料によって日が異なる→「[[出口王仁三郎#子供]]」</ref>)に生後7ヶ月で帰幽した[[六合大]](くにひろ。[[王仁三郎]]の長男)の霊を迎える祭典が行われた。その際、[[直日|出口直日]](13歳)と吉田兌三(12歳)は、開祖(数え13歳)と吉田兌三(数え12歳)は、開祖[[出口直]]の言うがまま、訳の分からぬままに水杯を交わした。兌三は[[六合大]]の生まれ変わり的存在と見なされて、[[出口澄子|澄子]]から直日の婿にと請われる。<ref>みいづ舎版『[[大地の母]] 第10巻』「霊主体従」153頁~175頁。</ref>
* 翌月5月17日、兌三は綾部に移住して大本入りをする。六合大(くにひろ)を継ぐという意味で、王仁三郎によって大二(ひろつぐ)と名付けられた<ref>『いり豆の花』669頁下段。</ref>。
* 同年9月26日、正式に王仁三郎の養子となる。
* 大正10年(1921年)10月13日(旧9月13日)、大正10年(1921年)10月14日(旧9月14日)<ref>10月11日に当局から本宮山神殿取毀命令を受け、13日にその責任を取って[[第一次大本事件大日本修斎会]]の責任を取る形で王仁三郎・澄子らは役職を下り、代わりに直日が教主に、大二が教主補に就任する。幹部役員は総辞職をしている。</ref>、[[王仁三郎]]と[[澄子]]は隠退し、[[直日]]が教主に、大二が教主補に就任する。<ref>『[[神の国 (1921)]]』大正10年(1921年)11月号「大本内部の消息」74頁:「▲十月十三日、今回の本宮山取毀事件に関して修斎会幹部役員一同引責総辞職をなすことに決定した。▲十月十四日、大先生、二代様は今回御隠退され三代様若先生は教主並に教主輔となられた。」(注「輔」は底本通り)</ref> <ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c3233|本宮山神殿破壊}}」:「一〇月一三日、修斎会の役員、幹部は責任をとって総辞職し、翌一四日には、二代教主すみ子・教主輔王仁三郎は引退のやむなきにいたった。こうして、三代教主直日・教主補大二がそのあとを継承することになった。」</ref> <ref>「[[大本年表]]」:10月13日の項「本宮山神殿取毀事件に対し、修斎会役員総辞職。」、10月14日の項「聖師、二代教主隠退し、直日、教主に就任。」</ref>
* 大正12年(1923年)6月18日(旧5月5日)、直日と大二は結婚式を挙げる。<ref>「[[大本年表]]」、『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c4224|新機運の動向}}」706頁</ref>
* しかし半年後の同年12月16日、王仁三郎は二人の結婚生活の破局を発表。
* その後、大二は大本を離れた。
〔主に「[[大本年表]]」「」、『[[大本七十年史]]」、『』、『[[いり豆の花]]』を参考にして作成した〕
== 脚注 ==

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