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出口王仁三郎

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子供
'''出口王仁三郎'''(でぐち おにさぶろう、1871~1948年)は、[[大本]]の[[二大教祖]]の一人。『[[霊界物語]]』著者。霊能者、予言者、歌人、芸術家としても知られている。幼名は上田喜三郎(うえだ きさぶろう)。大本を開教した[[出口直]]の娘婿となり、教団を組織し教典を作成し教義教理を整備した。大本における肩書きは「[[教主輔]]」。尊称「[[聖師]]」。
 
* [[出口王仁三郎の著述]]
* [[出口王仁三郎の写真]]
* [[出口王仁三郎の歌碑]]
== 基本情報 ==
* 王仁三郎は職業を「世界改造業者」と称したことがある。<ref>[[出口和明]]『[[大地の母]] 第九巻「丹波の曙」』(みいづ舎版)p226「四月、直日は数え七つで綾部尋常小学校に入学した。家庭調査表の父の職業欄に、王仁三郎はこう書いている。
 ――世界改造業者。」</ref> <ref>[[出口京太郎]]・編著『[[出口王仁三郎の示した未来へ]]』p283「初期のころの話ですが、祖父は名刺をつくりまして、職業欄には「世界改造業者」「人間改造業者」という肩書きをかきました。これはいわば祖父のアイデンティティの表明と受け取れます。それが祖父の生涯を貫いた思想であり、言動であり、目標であったと思います。</ref>
 
== 別名・雅号 ==
王仁三郎は多数の別名や雅号を持つ。
* '''変性女子'''(へんじょうにょし):
* '''瑞の身魂'''(みづのみたま)、'''瑞霊'''(ずいれい):
* '''海潮'''(かいちょう):雅号。 →「[[海潮]]」
* '''瑞月'''(ずいげつ):著作執筆で使っていた雅号の一つ。『[[神霊界]]』大正10年(1921年)2月号掲載「[[故郷乃二十八年]]」冒頭の「執筆の理由」<ref>『出口王仁三郎著作集 第五巻』「{{obc|B195305c103|生いたちの記}}」。「執筆の理由」は全集第八巻「故郷の弐拾八年」では省略されている。</ref>によると、神様が王仁三郎の別名を「瑞月」と付けてくれたので、その月から「瑞月」という号で執筆することにした。その執筆日は大正9年(1920年)12月26日である。
* '''尋仁'''(じんじん):雅号。 →「[[尋仁]]」
* '''忠勝'''(ただかつ?):雅号。 →「[[忠勝]]」
* '''聖師'''(せいし):尊称。 →「[[聖師]]」
* '''喜三やん'''(きさやん):あだ名。
* '''王仁さん'''(わにさん):あだ名。
== 家族 ==
 
明治4年(1871年)7月12日(当時はまだ改暦前。新暦だと8月27日になる)上田家に生まれる。幼名・喜三郎(きさぶろう)。
{| class=wikitable
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!続柄!!名前!!生誕日!!帰幽日!!享年<ref>原則として満年齢で記載。</ref>!!配偶者!!備考
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|長男||喜三郎(きさぶろう)(出口王仁三郎)||明治4年(1871年)7月12日||昭和23年(1948年)1月19日||76歳||澄子||
|五男||久太郎(きゅうたろう)||明治21年(1888年)3月7日(旧1月25日)<ref name="omnp" />||不詳||十日目(または数十日後)に帰幽<ref>みいづ舎版『大地の母 第二巻』p.106「五男久太郎は二十一年に生まれて十日目に死んでいる」。「故郷の弐拾八年」では「久太郎は出生後数十日にして帰幽した」。</ref>||-||
|-
|三女||[[君子]](きみこ)(きみこ)(小西きみ)||明治25年(1892年)9月22日(旧8月2日)<ref name="omnp" />|| 昭和49年(1974年)11月10日<ref>『[[愛善苑]]』昭和49年(1974年)12月号17頁</ref>|| 82歳||明治41年(1908年)3月27日、[[小西増吉]](宇津の[[小西松元]]の息子)と結婚<ref name="omnp" />||
|}
=== 子供 ===
王仁三郎と澄子との間に男子2人・女子6人の子ができたが、そのうち男子2人・女子1人は小さい時に帰幽した。成人した子は女子5人なので、尚江は四女、住之江は五女と表記する文献もある。(表の享年は満年齢。子供=王仁三郎の孫は夭折者を除く)王仁三郎と澄子との間に男子2人・女子6人の子ができたが、そのうち男子2人・女子1人は小さい時に帰幽した。成人した子は女子5人なので、尚江は四女、住之江は五女と表記している文献もある。(表の享年は満年齢。子供=王仁三郎の孫は夭折者を除く)
{| class=wikitable
|四女||[[一二三]](ひふみ)||明治44年(1911年)8月8日(旧閏6月14日)||昭和2年(1927年)12月21日(旧11月28日)||16歳||-||-
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|長男||[[六合大]](くにひろ)||大正2年(1913年)8月29日(旧7月28日)||大正3年(1914年)4月9日(旧3月14日)大正3年(1914年)4月9日(旧3月14日)又は10日<ref>資料によって日が異なる。『[[大本七十年史]]』『[[大地の母]]』では4月9日だが、「[[大本年表]]」では4月10日帰幽、12日葬儀になっている。『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2121|大本教の教規と信条}}」:「同年八月二九日、王仁三郎の長男六合大が生まれたが、七ヵ月あまりで翌一九一四(大正三)年四月九日に帰幽した」。みいづ舎版『大地の母 第10巻』153頁「明後日は金龍殿上棟式という大正三(一九一四)年四月九日であった」。</ref>||およそ7ヶ月||-||-
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|五女(四女)||[[尚江]](ひさえ)||大正4年(1915年)3月5日(旧1月20日)||昭和52年(1977年)7月28日(旧6月13日)||62歳||[[三千麿]](中野貞四郎)||三千恵、[[尚雄]]、[[文営]]
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|二男||[[相生]](すけなり)||大正7年(1918年)4月3日(旧2月2日)大正7年(1918年)4月3日(旧2月2日)双子||大正7年(1918年)8月25日(旧7月19日)||およそ5ヶ月||-||-
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|六女(五女)||[[住之江]](すみのえ)||大正7年(1918年)4月3日(旧2月2日)大正7年(1918年)4月3日(旧2月2日)双子||昭和55年(1980年)10月13日<ref>[[出口和明]]『[[第三次大本事件の真相]]』p.227</ref>(旧9月5日)||62歳||[[五十麿]](高橋義衛)||義江、恵子、[[雅子]]
|}
== 少年青年時代 ==
<書きかけ>
 
* 祖父の[[吉松]]は喜三郎が生まれて半年後に病気で亡くなった。亡くなる直前に喜三郎の両親を枕頭に招いて次のように遺言した。「上田家は古来から七代目に必ず偉人が現れて天下に名を顕したものである。有名な画伯・[[円山応挙]](本名は上田主水)は自分の五代前の祖先である。今度の孫はちょうど七代目に当たるから、必ず何かの事で天下に名を顕すものになるであろう。先日も易者に孫の人相を観てもらったら、この子はあまり学問をさせると親の屋敷に居らぬようになる。しかし善悪に由らず、いずれにしても変わった子であるから十分気をつけて育てよ、とのことであった。私は死んでも霊魂は生きて、孫の生い先を守ってやる。この子は成長して名を顕しても我が家の力にはならないが、天下に美名を上げてくれれば祖先の名誉であり、天下のためであるから、大事に養育せよ」と言い終わると、眠るように帰幽した。<ref>『[[出口王仁三郎全集]] 第八巻』[[故郷の二十八年]]「{{obc|B121808c09|祖父の遺言}}」</ref>
== 高熊山修業以降 ==
<書きかけ>
=== 長沢雄楯との出会い ===
== 第一次大本事件以降 ==
<書きかけ>
王仁三郎は第一次大本事件以降は大衆の前に立つことがなく、再び大衆の前に現れたのは昭和9年8月12日、昭和神聖会京都地方本部発会式においてである。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5304|地方組織の拡大}}」p177「第一次大本事件以後、かつて一度も公衆の前に立つことのなかった聖師が、統管として壇上にあがり、聖師みずからによる昭和神聖会結成の決意がひれきされた」</ref> <ref>[[大国美都雄]]『[[真偽二道]]』p183「出口聖師は、第一次大本事件以来、一度も大衆の前に立ったことがなかったが、今回は神聖会の統管として壇上に上がり、来会者に叫びかけた」</ref> (信者以外を対象にして講演等を行わなかったという意味)
== 第二次大本事件以降 ==
<書きかけ>
== 生活 ==
== 伝記 ==
出口王仁三郎の人生を記した伝記や研究書には、主に次のものがある。出口王仁三郎の人生を記した伝記や研究書には、次のようなものがある。  →詳細は「[[伝記歴史書]]」
* [[青柳真三郎]]『[[春は呼びかける]]』昭和7年(1932年)、北国夕刊新聞社
* [[青柳真三郎]]『[[空に解け入る]]』昭和8年(1933年)、北国夕刊新聞社
* 大本教学院・編纂『[[聖師伝]]』昭和28年(1953年)、天声社
* [[出口京太郎]]『[[巨人出口王仁三郎]]』昭和42年(1967年)、講談社
* [[出口和明]]『[[大地の母]]』全12巻、昭和44年(1969年)~46年、毎日新聞社
* [[村上重良]]『[[出口王仁三郎 (村上重良の著書)|出口王仁三郎]]』昭和48年(1973年)、新人物往来社
* [[伊藤栄蔵]]『[[大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯]]』昭和59年(1984年)、講談社
* [[ナンシー・K・ストーカー]]『[[出口王仁三郎 帝国の時代のカリスマ]]』平成21年(2009年)、原書房
→「[[大本に関わるフィクション作品]]」
 
== ギャラリー ==
 
 →「[[出口王仁三郎の写真]]」
== 関連項目 ==

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