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岡田茂吉

157 バイト追加, 2024年4月4日 (木)
略年表
'''岡田茂吉'''(おかだ もきち)は、元・もきち、1882~1955年)は、元・[[大本]]信者。[[世界救世教]]の教祖。
岡田茂吉の大本信仰歴は、大正9年(1920年)6月から昭和9年(1934年)9月までの足掛け15年間だが、入信して間もなく甥の死をきっかけに大本から離れ、大正12年の関東大震災後に大本に戻るまで約3年間のブランクがある。
* 大正8年(1919年)春、多額の負債を抱え、倒産(借金の返済はその後22年間続いた)。
* 同年6月、妻タカが女児を早産するが、間もなく死亡。一週間後にタカも死んでしまう。(それ以前にも2回妊娠しているが、1回目は夭折、2回目は死産している。結婚後なかなか妊娠しなかったため、姉の遺児を引き取り(3人?)育てていた)
* 同年12月、よし子(太田よ志)と再婚。半年後に妊娠するが、その五ヶ月後によし子は肺結核にかかってしまう。<ref name="zensyu1_p14">『岡田茂吉全集著述編第1巻』14~15頁『岡田茂吉全集 著述編 第1巻』14~15頁</ref>
* 茂吉は奈落の底に落ち、信仰の道を模索し始めた(37歳)。それまでは徹底した無神論者で、神仏に祈る人たちをバカにしていたが、相次ぐ不幸によって一変し、救いを求めて様々な宗教の門を叩いた。
* 大正9年(1920年)新聞広告で「大本教批判」という本を知り、買って読む。その後、神田の錦輝館(きんきかん)で大本教の講演会があることを新聞で知り、聞きに行った。その講演(講師は吉原亨)を聞いて、大本教こそ自分を救ってくれると茂吉は確信した。大正9年(1920年)新聞広告で「大本教批判」という本<ref>[[服部静夫]]・著『[[大本教の批判]]』(大正9年5月発行)のことか?</ref>を知り、買って読む。その後、神田の錦輝館(きんきかん)で大本教の講演会があることを新聞で知り、聞きに行った。その講演(講師は[[吉原亨]])を聞いて、大本教こそ自分を救ってくれると茂吉は確信した。<ref name="zensyu1_p14" />
* 同年6月に、大本に入信する。綾部へ参拝して帰ると、後妻のよし子の病が全快するという奇蹟を体験する。<ref name="zensyu1_p14" />
* 茂吉は店員たちにも綾部に修業に行かせた。甥の彦一郎(姉の遺児?まだ10代の学生)が店員と一緒に綾部に修業に行ったが、和知川で泳いでいて水死してしまう。聖地修業中での事故死に茂吉は大きな衝撃を受ける。兄・武次郎は大本に怒りをぶつけ、そんな信仰はやめてくれと言い出した。その後3年間、茂吉は大本から離れる。しかし大本神諭を研究したり、浅野和三郎らの心霊研究グループとつながりを持つなど、神霊世界への探究は続けられた。茂吉は店員たちにも綾部に修業に行かせた。甥の彦一郎(姉の遺児?まだ10代の学生)が店員と一緒に綾部に修業に行ったが、和知川で泳いでいて水死してしまう。聖地修業中での事故死に茂吉は大きな衝撃を受ける。兄・武次郎は大本に怒りをぶつけ、そんな信仰はやめてくれと言い出した。その後3年間、茂吉は大本から離れる。しかし大本神諭を研究したり、[[浅野和三郎]]らの心霊研究グループとつながりを持つなど、神霊世界への探究は続けられた。
* 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災勃発。震災後に疫痢が流行し、10月に生後1歳の男児(よし子との間に初めて生まれた子)が病死してしまう。震災によって岡田商店の経営も苦しく、茂吉は再び奈落の底に落ちた。かねて茂吉は、大本神諭の「東京はもとの薄野(すすきの)になるぞよ」という警告から「東京は火の海になる」と予見していたが、実際に関東大震災によってそれが実現したことで〈奇跡を実感し、神の実在に触れた〉<ref name="kamisamawo_p206">『神様を~』206頁</ref>。茂吉はその年のうちに大本信仰に戻り、それから3年間、神霊学の研究に没頭した。(この〈回心のきっかけとなった決定的理由は、関東大震災を警告する大本の「お筆先」だった〉<ref name="kamisamawo_p206" />)
* 大正15年(1926年)の暮れ、初めて神の啓示を受ける。自動書記で神示が降りて、3ヶ月の間に便箋3~400枚を書いた。〈その内容は五十万年前の原始時代から七千年前にいたる日本の創世記にはじまり、未来の人類の歴史をたどるもので、さらに茂吉自身の過去、現在、未来にわたる運命を解明していた。予言は後になって満州事変や太平洋戦争、そして戦後の世界情勢のなかに事実となって現われた。(略)残念なことに、この記録は残されていない。神示の内容には皇室の運命に言及しているところもあり、万が一官憲の目に触れることがあったはとの危惧から、ひそかにブリキ缶に収めて縁の下に隠されていた。(略)茂吉も大本に所属していたため、身辺は常に監視の目が光り、しばしば出頭を命じられた。そこで、身の危険を感じた彼は、この記録をいっさい焼却してしまった。戦後になって、彼は記憶をたどり未来世界の啓示を「二十一世紀」と題する文章にまとめている。〉<ref>『神様を~』210~212頁</ref> <ref>「二十一世紀」は『岡田茂吉全集 著述篇 第6巻』109~121頁に収録されている。昭和23年著。</ref>。
* 茂吉は救いの業を身に付けるため鎮魂帰神法の習得と実践に全身全霊を打ち込む。それにより病人の奇跡的な治癒が相次いだ。 →「[[#手かざしのルーツ]]」
* 〈1927年(昭和2年)、[[東京愛信会]]の明光支社・主任となる。同年三女・斎誕生。1928年(昭和3年)2月4日、事業の一切を部下に委譲し、一層、不可視力の研究に没頭する。同年4月、大本教の准宣伝使、同7月には正宣伝使、翌1929年(昭和4年)には東京本部・常任委員となる。〉<ref>これはWikipediaに書いてあった。典拠は不明。これはWikipediaからの引用。典拠は不明。</ref>
* 昭和6年(1931年)6月15日、千葉県の鋸山の山頂で「夜昼転換」の啓示を受ける(霊界で夜(闇)の時代から昼(明)の時代へ転換し始めたことを知らされた)。
* 昭和9年(1934年)9月15日、茂吉は正式な届けを出して大本を離れる。
== 手かざしのルーツ ==
[[世界救世教]]で行われている浄霊(手かざし)のルーツは、大本の[[鎮魂帰神]]である。〈現在行なわれている世界救世教の浄霊法は、「大本」教の鎮魂帰神法に端を発していて、その後長い探究の道程があり、昭和九年(一九三四)五月にようやく確立をみたものである〉である。『神様を~』によると〈現在行なわれている世界救世教の浄霊法は、「大本」教の鎮魂帰神法に端を発していて、その後長い探究の道程があり、昭和九年(一九三四)五月にようやく確立をみたものである〉<ref>『神様の~』88頁</ref>。
王仁三郎が鎮魂帰神術を中心に据えて宣教活動を始めたのは明治31年(1898年)3月、[[高熊山修業]]の後であるが、すでにその時から、鎮魂帰神の効果の一つとして病気の治癒があった。大正12年(1923年)8月以降、王仁三郎は[[御手代]]を[[宣伝使]]に下付して、病気治しのお取次などに使われるようになった。

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