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耀盌

455 バイト追加, 2024年4月1日 (月)
昇天後の歴史
前期(大正15年2月から昭和10年12月第二次大本事件までの約9年10ヶ月)の作品については約5千個という推測がある。だが第二次大本事件の際、当局の弾圧によりその多くは破却され、現存するものは少ない。<ref>『立替え立直し 人類愛善世界の提唱』(昭和46年、出口王仁三郎生誕百年記念会)p97、加藤義一郎「茶盌師王仁」:「約五千の楽焼茶盌を造っていたという。しかし当時の官憲の峻烈な弾圧は、如何なる一物もいやしくも彼の息のかかったものの遺存を許さなかったので、一旦眼に触れれば容赦なく破毀され、五千を数えたという楽焼も、より多くの書画の筆蹟同様殆ど亡失したのである。それ故偶然に残った極めて稀な例以外には、前期の作を窺うすべはない。」</ref>
後期(昭和19年年末から昭和20年3月までの約1年3ヶ月)の作品つまり耀盌の個数については「3000個」や「3000個以上」と紹介している場合が多い。後期(昭和19年年末から昭和21年3月までの約1年3ヶ月)の作品つまり耀盌の個数については「3000個」や「3000個以上」と紹介している場合が多い。
【例】
== 昇天後の歴史 ==
王仁三郎が作った楽焼茶碗は、信徒にとっては信仰的な意味で価値が高いものだが、信徒以外でその芸術的価値を高く評価したのは、[[加藤義一郎]](工芸美術の評論家、日本美術工芸社主幹)が最初である。加藤は昭和24年(1949年)2月、岡山県伊部町の[[金重陶陽]](備前焼の陶匠、昭和31年に人間国宝に認定<ref><wp>金重陶陽</wp></ref>)を訪問し、そこで王仁三郎作の楽焼茶碗「天国廿八」と「御遊(ぎょゆう)」を見て感激した。その感想を『日本美術工芸』誌の同年3月号に「耀盌顕現」と題して発表した。また8月号では「耀盌〝天国廿八─出口王仁師手造茶盌〟」と題する論評を発表した。)を訪問し、そこで王仁三郎作の楽焼茶碗「天国廿八」と「御遊(ぎょゆう)」を見て感激した。その感想を『日本美術工芸』誌の同年3月号に「耀盌顕現」と題して発表した<ref>いちゐのや([[加藤義一郎]]のペンネーム)「耀盌顕現」、『日本美術工芸』昭和24年(1949年)3月号、51頁(3段組の最下段だけの短い記事)、{{ndldl|2281577/1/28}}</ref>。また8月号では「耀盌〝天国廿八─出口王仁師手造茶盌〟」と題する論評を発表した<ref>[[加藤義一郎]]「ちゃわん抄七 耀盌『天国廿八』─出口王仁師手造茶盌─」、『日本美術工芸』昭和24年(1949年)8月号、23~28頁、{{ndldl|2281582/1/14}}</ref>。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c7452|楽天社の発足宣言とその活動}}」</ref>
これにより大本でも、王仁三郎の楽焼茶碗を「耀盌」と呼ぶようになった。
{{デフォルトソート:ようわん}}
[[Category:用語]]
[[Category:芸術出口王仁三郎の芸術]]

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