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天恩郷

5,315 バイト追加, 2024年3月11日 (月)
映画撮影
[[ファイル:昭和7年頃の亀岡天恩郷(天恩郷全景).jpg|thumb|昭和7年(1932年)頃の天恩郷。(『[[天恩郷全景]]』より)]][[ファイル:戦前の天恩郷の航空写真.jpg|thumb|戦前の天恩郷の航空写真。]] '''天恩郷'''(てんおんきょう)は、[[綾部]]の[[梅松苑]]と並ぶ[[大本]]の[[二大聖地]]の一つで、宣教の拠点となる神苑。京都府[[亀岡]]市(旧・南桑田郡亀岡町)にあり、[[明智光秀]]の居城だった[[亀山城]]址に造営された。
旧称「[[万寿苑]]」、雅称「[[花明山]](かめやま)」。
 
[[梅松苑|綾部の聖地]]は「[[天国]]」を、亀岡の聖地は「[[霊国]]」を地上に移写したものとして造営された。<ref>『出口王仁三郎著作集 第3巻』「{{obc|B195303c307|庭園}}」、初出『月明』昭和2年5月号「言林」の「庭園」</ref> <ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c5111|みろく大祭}}」</ref>
 
現在は大本本部亀岡宣教センターが置かれている。
== 造営 ==
* 待てしばし昔の城にかへさむと雄たけびしたる若き日の吾
大正8年(1919年)11月18日、王仁三郎は穴太の[[小幡神社]]の社務所で、亀山城址の所有者と買収の交渉を行い、城址1万3500坪を3000円(現在の貨幣価値で400万円前後の社務所で、亀山城址の所有者と買収の交渉を行い、城址1万3500坪を3千円(現在の貨幣価値で400万円前後<ref>「[https://yaruzou.net/hprice/hprice-calc.html 日本円貨幣価値計算機]」で計算すると、1919年の3000円は2017年の約345万円(GDP)から約457万円(CPI)に相当する。</ref> <ref>現在の亀岡駅周辺の地価は坪単価約33万円なので、1万3500坪は約45億円になる。参考サイト:[https://tochidai.info/kyoto/kameoka/ 土地代データ]</ref>)で購入する契約が成立した。<ref name="B195401c2324" />
この地は神教宣布と瑞霊の神業の聖地と定められ、大正9年(1920年)4月27日に山開式、6月13日に地鎮祭が行われ、造営が始まった。<ref name="B195401c2324" />
大正9年(1920年)8月に大道場としてバラック建ての建物が一棟建てられ、翌10年7月10日は王仁三郎の居室兼事務所として「[[瑞祥閣]]」が建てられた。しかし第一次大本事件(大正10年2月)によってその他の建設工事は中断した。<ref name="B195401c4444">『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c4444|国内宣教と造営}}」</ref>
大正14年(1925年)の[[節分大祭]]を期に、本格的に神苑整備が始まった。それまで「[[万寿苑]]」と呼ばれていたが、「天恩郷」と命名された。また、天恩郷の」と呼ばれていたが、同年2月24日「天恩郷」と命名された。また、天恩郷の[[月照山]]より北側の部分を「万寿苑」、南側を「[[千秋苑]]」と呼ぶことになった。<ref name="B195401c4444" /> <ref>{{kgm|185|天恩郷の命名}}:「天恩郷を南北に別けて、月照山の以北を万寿苑と名づけ、以南を千秋苑と命名した」</ref>
まず第一着手として、[[瑞祥閣]]の前に「[[月の輪台]]」(大正14年3月完成)が造られ、続いて「[[光照殿]]」(大正14年10月完成)が建てられ[[人類愛善会]]総本部と[[世界宗教連合会]]東洋本部が置かれた。それまではランプが使われていたが、同年5月23日に天恩郷に電灯が点けられた。(綾部は9月24日に電灯が点く)<ref name="B195401c4444" />
* [[瑞祥閣]]:大正10年(1921年)7月完成。
* [[月明館瑞祥閣]]:大正10年(1921年)7月完成。
* [[月の輪台]]:大正14年(1925年)3月完成。
* [[みろく塔]]:大正14年(1925年)4月完成。
* [[平安石]]:大正14年(1925年)4月安置。
* [[光照殿]]:大正14年(1925年)10月完成。
* [[光照殿]]:大正14年(1925年)10月完成。
* [[千歳庵宣霊社]]:大正15年(1926年)1月完成。* [[大祥殿]]:大正15年(1926年)2月完成。* [[伊都能売観音坐像]]:大正15年(1926年)11月安置。* [[平安観音]]:昭和元年(1926年)12月安置。* [[月照観音]]:昭和2年(1927年)2月頃に鎮座。* [[瑞月庵大安石]]:昭和2年(1927年)10月安置。* [[玉泉亭小安石]](別名・赤子岩):昭和2年(1927年)10月安置。* [[更生館高天閣]]:昭和3年(1928年)2月完成。* [[みろく亭明光殿]]:昭和3年(1928年)7月完成。* [[豊生館月宮殿]]:昭和3年(1928年)10月完成。* [[神声歌碑瑞月門]]:昭和3年(1928年)10月完成。* [[懐古歌碑智照館]]:昭和4年(1929年)10月完成。* [[透明殿豊生館]]:(旧館)昭和4年(1929年)12月完成。(新館)昭和6年(1931年)8月完成。* [[秀光館春陽亭]]:昭和5年(1930年)4月完成。* [[秋月亭]]:昭和5年(1930年)4月完成。* [[七月苑]]:昭和5年(1930年)11月完成。後に「[[東雲社]]」と改称。* [[春陽亭月光亭]]:昭和6年(1931年)2月完成。* [[明光殿緑生館]]:昭和6年(1931年)8月設置。* [[月宮殿更生館]]:昭和6年(1931年)8月完成。* [[瑞月門秀光館]]:昭和6年(1931年)11月完成。* [[第二国魂宝座みろく亭 (天恩郷)]]:昭和7年(1932年)2月完成。* [[高天閣瑞月庵]]:昭和7年(1932年)7月完成。* [[瑞声閣]]:昭和7年(1932年)7月完成。* [[月光亭洗心亭]]:昭和7年(1932年)完成。翌年移築して「[[新心亭]]」と改称。* [[伊都能売観音千歳庵]]:昭和8年(1933年)完成。* [[大安石玉泉苑]]:昭和8年(1933年)頃?に完成。* [[小安石国防館]]:昭和9年(1934年)12月完成。* [[月明館透明殿]]:昭和10年(1935年)2月完成。* [[光照殿万祥殿 (旧)]]:昭和7年(1932年)に造営が始まったが未完成。* [[瑞祥閣月明館]]* [[祥明館]]* [[衝立岩]]:* [[大祥殿明鏡館]]* [[智照館蓮月庵]]
* [[陽光社]]
* [[宣霊社]]
* [[月照観音]]
* [[みろく塔]]
* [[衝立岩]]
* [[平安石]]
* [[平安観音]]
* [[瑞声閣]]
* [[天声社]]
* [[明鏡館]]
* [[亀年館]]
* [[七月苑教歌碑]]* (別名・教碑、神声歌碑) →「[[蓮月庵天恩郷の三基の歌碑]]* [[緑生館懐古歌碑]]* (別名・追懐歌碑) →「[[新心亭天恩郷の三基の歌碑]]* [[国防館第二国魂宝座]]* [[万祥殿万寿苑]]:天恩郷の旧称。改称後は天恩郷内のエリア名。* [[東光苑]]* [[万寿苑]]:天恩郷内のエリア名。* [[千秋苑]]:天恩郷内のエリア名。
== 破壊と再建 ==
天恩郷の再建にあたって最初に建造が決まったのは[[王仁三郎]]・[[澄子]]夫妻の居館となる「[[瑞祥館]]」(昭和21年12月完成)で、次に[[月照山]]や[[月の輪台]]が築造されて行った。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c7132|両聖地の整備}}」</ref>
 
現在の天恩郷の総面積は約8万2千平方メートル(約2万5千坪)ある。<ref>天恩郷内の案内図の説明による。</ref>
== 主な建造物(戦後) ==
[[ファイル:天恩郷の三基の歌碑2007.jpg|thumb|[[教歌碑]](中)と[[懐古歌碑]](左右)。2007年11月撮影。]]
[[ファイル:教学碑2008.jpg|thumb|[[教学碑]]。2008年9月撮影。]]
[[ファイル:四大主義碑2014.jpg|thumb|[[四大主義碑]]。2014年3月撮影。]]
 
第二次大戦後に造られた主な建造物は次の通りである。
* [[春陽閣]]
* [[万葉舎]]
* 教歌碑・懐古歌碑 →「[[教旨・学則碑天恩郷の三基の歌碑]]* [[教学碑]]:昭和28年(1953年)4月18日建立。[[大本教旨]]と[[三大学則]]が刻まれている。* [[四大主義碑]]:昭和46年(1971年)8月6日建立。
* [[万祥軒]]
* [[万祥殿(新)]]
* [[歌碑]]
* [[朝陽館]]
* [[神教殿]]
* [[みろく会館]]
 
== ギャラリー ==
<gallery>
ファイル:天恩郷碑2008.jpg|[[天恩郷碑]]
</gallery>
== 略年表 ==
(作成中)(未作成) == 映画撮影 ==天恩郷で撮影した映画には、次のものがある。(梅松苑で撮影した映画は→「[[梅松苑#映画撮影]]」) === 大本の映画 ===* 昭和10年(1935年)8月、王仁三郎主演『[[昭和の七福神]]』を撮影。16ミリフィルム、全2巻、800フィート。同年9月6日に透明殿で試写。9月25日に大祥殿にて一般公開。* 昭和10年(1935年)10月13日、穴太で十六神将の撮影。 →「[[十六神将]]」* 昭和10年(1935年)11月、王仁三郎の自伝映画『聖師伝』撮影。 他にもある。『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c8221|あらたな展開}}」を参照。 === 一般の映画 ===* 昭和7年(1932年)4月公開『異色水戸黄門』日活、94分、無声:「大本年表」によると昭和7年3月2日に天恩郷と穴太で二日間、日活映画のロケを行った。「[https://www.nikkatsu.com/movie/13032.html 異色 水戸黄門](日活公式サイト)」を参照。* 昭和7年(1932年)5月11日に「日活映画の片岡千恵蔵ら一行、ロケに来亀」と「大本年表」に書いてあるが、どの映画なのかは不明。* 昭和50年(1975年)公開『激突!合気道』、東映:植芝盛平の若き日の苦闘を描いたアクション映画。 →「[[激突!合気道]]」 == その他 ==霊界物語に登場するメソポタミヤの顕恩郷は、当初は「天恩郷」という名称だった。 →「[[顕恩郷]]」を見よ
== 脚注 ==
<references/>
 
== 関連項目 ==
* [[梅松苑]]:天恩郷と並ぶ[[二大聖地]]の一つ。
== 外部リンク ==
* [http://oomoto.or.jp/wp/seichi/ 大本の聖地](宗教法人大本の公式サイト)
* <wp>亀山城 (丹波国)</wp>
* <wp>明智光秀</wp>
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[[Category:大本の聖地大本の施設|*]][[Category:大本の施設亀岡|*]][[Category:天恩郷|*]]

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