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− | + | == 略年表 == | |
+ | * 昭和2年(1927年)4月29日、兵庫県城崎郡城崎町(現・豊岡市城崎町)湯島の呉服商・佐々木政次郎、きみ夫婦の次男として生まれる。西陣の著名な織元の佐々木清七(1844~1908年)の曾孫にあたる。 | ||
+ | * 父・政次郎は西陣の織屋を継いだが大正14年(1925年)5月の北但大震災(北但馬地震)の後、その復興の機運や地元の友人の要請もあって城崎に呉服店を出した。開店から一年ほど経った時に上田正昭が生まれた。<ref>『アジアの~』1頁</ref> | ||
+ | * 小学5年生の時に家庭の事情で西陣の小学校に転校するが、6年生の時に城崎に戻る。 | ||
+ | * 昭和15年(1940年)4月、兵庫県立豊岡中学校(現・県立豊岡高校)に入学。その頃、父が病死し、母たちは店じまいをして西陣へ帰った。<ref>『アジアの~』4頁</ref> | ||
+ | * 昭和16年(1941年)4月、京都府立第二中学校(現・府立鳥羽高校)に転入学。 | ||
+ | * 昭和17年(1942年)3月、[[小幡神社]]の社家・上田家の第33代を継ぐ。先代([[上田正定]])が逝去して後継者がなく、父母と親しい間柄だった上田多美・美知(多美は正定の長女<ref>多美は『[[大地の母]] 第2巻』68頁に登場する。「羽織袴に八字髭、すいっと長身の上田正定。傍に妻のぶが赤子(長男の正躬)を背に長女多美を連れている。五つの多美はおけしぼん(おかっぱ)のかわいい髪を肩まで垂らし、綿入れの袖を胸で合わせて、乳牛をのぞきこむ」。美知は次女?</ref>)の懇望による。<ref name="ajiano_p15">『アジアの~』15頁</ref> | ||
+ | * 早く神職の資格を取るため、第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部および岡山大学医学部)への進学はあきらめて、京都国学院(昭和17年4月)、さらに国学院大学専門部(昭和19年4月)へと進む。国学院大学で教鞭をとっていた[[折口信夫]]と出会い、折口の影響で歴史を学ぶため京都帝大へ進む。<ref name="ajiano_p15" /> | ||
+ | * 昭和22年(1947年)4月1日、京都帝国大学文学部史学科に入学。 | ||
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+ | * 平成28年(2016年)3月13日、亀岡の自宅で<ref>『現代の論理』</ref>帰幽。88歳。 | ||
− | * | + | == 王仁三郎との関係 == |
− | * | + | * [[小幡神社]]の先代宮司・[[上田正定]]は、[[上田喜三郎]]・[[村上信太郎]]と共に[[精乳館]]を創業した三人のうちの一人である。 |
− | * | + | * 青年時代に[[王仁三郎]]と多少親交があり、後には大本関係の講演や執筆も依頼されて行っていた。 |
− | + | * [[王仁三郎]]との会話を回顧して次のように語っている。「僕がまだ中学の二年生頃に穴太の小幡神社(亀岡市)へ行ったんです」「聖師は勉強したらアカンというのです。〝勉強なんかしたらアカン、お前は勉強したらな、穴太を飛び出して行く〟というんですわ。ではどうするかと聞くとね、〝村の役場でも勤めたらええわ〟と、こういう無責任なことをいう。僕は抵抗しとったんですけどね。〝僕は学問やる〟言ったら、〝そりゃしゃあないな〟というようなことだったけどもね。しかし、王仁三郎が言いたかったことがわかるような気もします」<ref>『[[出口栄二選集]] 第三巻』p143([[出口栄二]]、上田正昭、[[梅原猛]]の3人による鼎談)</ref> | |
+ | * 『[[大本七十年史]]』の編纂に編集参与として参画した。それは「私の生涯にとって忘れることのできない仕事」だったと回顧している。<ref>『アジアのなかの日本再発見』122頁</ref> | ||
+ | * 『大本七十年史』以外にも大本の出版物に関わっている。【例】『[[「[[みろくの世]]」 (天声社)|]]』監修 | ||
* [[出口栄二]]とは昭和24年(1949年)頃から、学友として親交があった。<ref>『[[出口栄二選集]]』月報1 上田正昭「華甲再生」p4「著者とは一九四九(昭和二十四)年のころから、学友としての親交をつづけてきた」</ref> | * [[出口栄二]]とは昭和24年(1949年)頃から、学友として親交があった。<ref>『[[出口栄二選集]]』月報1 上田正昭「華甲再生」p4「著者とは一九四九(昭和二十四)年のころから、学友としての親交をつづけてきた」</ref> | ||
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− | + | * 上田正昭『アジアのなかの日本再発見』(上田正昭の自伝)平成23年(2011年)6月、ミネルヴァ書房 | |
+ | * [[梅原猛]]・上田正昭『「日本」という国』2001年、大和書房、p12 | ||
+ | * [http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-276.htm 鎮守の森はよみがえる](平成14年(2002年)2月10日放送、NHK教育テレビ「こころの時代」、上田正昭のインタビューを文字起こししたもの) | ||
+ | * 『現代の論理』第8号 西村秀樹「皇国史観、差別に抗い、天皇や司馬遼太郎に大きな影響与えた~上田正昭」[http://gendainoriron.jp/vol.08/serial/se01.php Web上の記事] | ||
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2023年12月20日 (水) 17:13時点における最新版
上田正昭(うえだ まさあき、1927~2016年)は、歴史学者。小幡神社の第33代宮司。京都大学名誉教授。専門は日本古代史。
略年表
- 昭和2年(1927年)4月29日、兵庫県城崎郡城崎町(現・豊岡市城崎町)湯島の呉服商・佐々木政次郎、きみ夫婦の次男として生まれる。西陣の著名な織元の佐々木清七(1844~1908年)の曾孫にあたる。
- 父・政次郎は西陣の織屋を継いだが大正14年(1925年)5月の北但大震災(北但馬地震)の後、その復興の機運や地元の友人の要請もあって城崎に呉服店を出した。開店から一年ほど経った時に上田正昭が生まれた。[1]
- 小学5年生の時に家庭の事情で西陣の小学校に転校するが、6年生の時に城崎に戻る。
- 昭和15年(1940年)4月、兵庫県立豊岡中学校(現・県立豊岡高校)に入学。その頃、父が病死し、母たちは店じまいをして西陣へ帰った。[2]
- 昭和16年(1941年)4月、京都府立第二中学校(現・府立鳥羽高校)に転入学。
- 昭和17年(1942年)3月、小幡神社の社家・上田家の第33代を継ぐ。先代(上田正定)が逝去して後継者がなく、父母と親しい間柄だった上田多美・美知(多美は正定の長女[3])の懇望による。[4]
- 早く神職の資格を取るため、第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部および岡山大学医学部)への進学はあきらめて、京都国学院(昭和17年4月)、さらに国学院大学専門部(昭和19年4月)へと進む。国学院大学で教鞭をとっていた折口信夫と出会い、折口の影響で歴史を学ぶため京都帝大へ進む。[4]
- 昭和22年(1947年)4月1日、京都帝国大学文学部史学科に入学。
- 昭和22年(1947年)5月1日、小幡神社宮司および神明社宮司に任命された。
- 平成28年(2016年)3月13日、亀岡の自宅で[5]帰幽。88歳。
王仁三郎との関係
- 小幡神社の先代宮司・上田正定は、上田喜三郎・村上信太郎と共に精乳館を創業した三人のうちの一人である。
- 青年時代に王仁三郎と多少親交があり、後には大本関係の講演や執筆も依頼されて行っていた。
- 王仁三郎との会話を回顧して次のように語っている。「僕がまだ中学の二年生頃に穴太の小幡神社(亀岡市)へ行ったんです」「聖師は勉強したらアカンというのです。〝勉強なんかしたらアカン、お前は勉強したらな、穴太を飛び出して行く〟というんですわ。ではどうするかと聞くとね、〝村の役場でも勤めたらええわ〟と、こういう無責任なことをいう。僕は抵抗しとったんですけどね。〝僕は学問やる〟言ったら、〝そりゃしゃあないな〟というようなことだったけどもね。しかし、王仁三郎が言いたかったことがわかるような気もします」[6]
- 『大本七十年史』の編纂に編集参与として参画した。それは「私の生涯にとって忘れることのできない仕事」だったと回顧している。[7]
- 『大本七十年史』以外にも大本の出版物に関わっている。【例】『[[「みろくの世」 (天声社)|]]』監修
- 出口栄二とは昭和24年(1949年)頃から、学友として親交があった。[8]
主な参考文献
- 上田正昭『アジアのなかの日本再発見』(上田正昭の自伝)平成23年(2011年)6月、ミネルヴァ書房
- 梅原猛・上田正昭『「日本」という国』2001年、大和書房、p12
- 鎮守の森はよみがえる(平成14年(2002年)2月10日放送、NHK教育テレビ「こころの時代」、上田正昭のインタビューを文字起こししたもの)
- 『現代の論理』第8号 西村秀樹「皇国史観、差別に抗い、天皇や司馬遼太郎に大きな影響与えた~上田正昭」Web上の記事
関連項目
外部リンク
- 上田正昭 - コトバンク、上田正昭 - ウィキペディア
- 佐々木清七 - コトバンク:上田正昭の曾祖父。
脚注
- ↑ 『アジアの~』1頁
- ↑ 『アジアの~』4頁
- ↑ 多美は『大地の母 第2巻』68頁に登場する。「羽織袴に八字髭、すいっと長身の上田正定。傍に妻のぶが赤子(長男の正躬)を背に長女多美を連れている。五つの多美はおけしぼん(おかっぱ)のかわいい髪を肩まで垂らし、綿入れの袖を胸で合わせて、乳牛をのぞきこむ」。美知は次女?
- ↑ 4.0 4.1 『アジアの~』15頁
- ↑ 『現代の論理』
- ↑ 『出口栄二選集 第三巻』p143(出口栄二、上田正昭、梅原猛の3人による鼎談)
- ↑ 『アジアのなかの日本再発見』122頁
- ↑ 『出口栄二選集』月報1 上田正昭「華甲再生」p4「著者とは一九四九(昭和二十四)年のころから、学友としての親交をつづけてきた」