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奥都城

665 バイト追加, 2023年11月24日 (金) 20:46
外部リンク
[[ファイル:開祖奥津城(絵葉書).jpg|thumb|[[開祖]]の奥都城。撮影時期不明(戦前)。]]
[[ファイル:奥都城2014-1.jpg|thumb|奥都城。平成26年(2014年)3月撮影。]]
[[ファイル:奥都城2014-2.jpg|thumb|奥都城(遠景)。平成26年(2014年)3月撮影。]]
[[ファイル:奥都城2014-3.jpg|thumb|奥都城(案内板)。平成26年(2014年)3月撮影。]]
 
'''奥都城'''(おくつき)とは、
# 古代日本におけるお墓の呼び方であり、神道形式のお墓を指す。
# 王仁三郎在世中における大本の奥都城は、出口直開祖の墓を指す。[[王仁三郎]]在世中における大本の奥都城は、[[出口直]]開祖の墓を指す。
# 現在における大本の奥都城は、出口直・王仁三郎を始め歴代教主・教主補の墓を指す。
# 大本信徒の墓も奥都城と呼ぶ場合もある。
二代教主(ただし当時の肩書きは[[大本愛善苑]]苑主)の[[出口澄子]]は昭和27年(1952年)3月31日昇天し、4月10日に埋葬祭が行われた。
{{Inyou| 二代教主の奥都城は、開祖・聖師の奥都城の中央後方に築かれた。昇天されたその日の夕、祭出口栄二らによって位置がはかられ、翌四月一日地鎮祭をすますと、みろく殿建設に奉仕していた奉仕者全員を動員して築造にとりかかった。外まわりの石は宝塚からとりよせられたものである。霊柩とともに埋めた銘石は、たて八五センチ(二・八尺)、よこ二四センチ(八寸)の御影石に、表には「大本二代教主出口すみ子之柩」、裏には「昭和二十七年三月三十一日旧三月六日昇天 御齢七十才 出口直日謹書」と彫られたものである。 二代教主の奥都城は、開祖・聖師の奥都城の中央後方に築かれた。昇天されたその日の夕、出口栄二らによって位置がはかられ、翌四月一日地鎮祭をすますと、みろく殿建設に奉仕していた奉仕者全員を動員して築造にとりかかった。外まわりの石は宝塚からとりよせられたものである。霊柩とともに埋めた銘石は、たて八五センチ(二・八尺)、よこ二四センチ(八寸)の御影石に、表には「大本二代教主出口すみ子之柩」、裏には「昭和二十七年三月三十一日旧三月六日昇天 御齢七十才 出口直日謹書」と彫られたものである。
 奥都城の位置については、後日、[[出口伊佐男]]総長からつぎのような発表があった。
「三人世の元」ということが明治三十年の頃からのお筆先にしばしば示されておりますが、一体その三人はどなたであるかということが、今日まで明確になっておりませんでしたが、それは開祖様、聖師様、二代様のお三方であるということが実にはっきりして来まして、その様子は奥都城に現われていると思うのであります。「世の元」とは勿論大本の基の意でありまして、厳瑞の奥都城を主体となし、奥の要にあたるところに二代様がお鎮りになり、お三方をもって一体としての奥都城となったのであります。このお三人により大本は磐石の如き動かぬ基礎が定まったのであります(「愛善苑」昭和27・7)。|『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c7525|埋葬}}」}}
その後、
* [[惟神霊幸倍坐世]](二回)
* 四拍手一拝一揖
 
== ギャラリー ==
<gallery>
ファイル:奥都城1993.jpg|平成5年(1993年)6月撮影。
ファイル:奥都城2017.jpg|平成29年(2017年)2月撮影。
</gallery>
== 脚注 ==
* <wp>奥都城</wp>
{{デフォルトソート:おくつき}}[[Category:大本の施設]][[Category:奥都城|おくつき*]]

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