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熊野新宮神社

656 バイト追加, 2023年11月24日 (金) 05:32
額・碑
[[ファイル:熊野新宮神社2007-2.jpg|thumb|熊野新宮神社。2007年8月撮影。]]
[[ファイル:熊野新宮神社2007-1.jpg|thumb|社殿。2007年8月撮影。]]
 
'''熊野新宮神社'''(くまのしんぐうじんじゃ)は、[[綾部市]][[並松町]]に鎮座する神社。[[大本]]との関わりが深く、境内には[[出口王仁三郎]]の歌碑が建っている。
神社の歴史は古文書や伝承によると次のようになる〔[[#参考文献]]〕。
鎌倉時代初期の治承年間(1177~1181年)に、丹波の知行国主だった平重盛(1138~1179年)<ref>平重盛は平清盛の長男。重盛は永万元年(1165年)に丹波の知行国主となった〔『熊野新宮神社御由緒略記』1頁〕。</ref>が、綾部を巡遊した時に、[[由良川]]に臨む[[並松]]の佳景が熊野(平氏は熊野権現を崇敬していた)に似ているので<ref>実際の熊野は、那智山の北麓から東麓にかけて熊野川が流れている。その熊野川沿岸の風景に、由良川沿岸の並松の風景が似ていた、ということか?</ref>、三熊野(熊野三社)をこの地に勧請し、「不時の詣」つまり不測の時に熊野まで行かなくても熊野権現に参拝できるようにした。、[[三熊野]]([[熊野三社]])をこの地に勧請し、「不時の詣」つまり不測の時に熊野まで行かなくても熊野権現に参拝できるようにした。
三熊野の一つは本宮山南麓にある那智山 正暦寺(なちさん [[正暦寺]](なちさん しょうれきじ)である<ref>ただし正暦寺の由緒では天慶5年(942年)に空也上人が観音様を祀ったのが始まりとされる</ref>)。
他の二つは本宮と新宮である。新宮は本宮山の北麓(あるいは東麓)に、本宮は東麓にあった。<ref>実際の熊野三山では、那智山の北麓に本宮(熊野本宮大社)があり、東麓に新宮(熊野速玉大社)、南麓に熊野那智大社がある。</ref>
明治37年(1904年)、兵庫県の西宮神社(えびす神社)の分霊を勧請し、熊野新宮神社に祭られる(末社)。
大正6年(1917年)皇后が綾部に行啓したことをきっかけに、宮中の紅葉山御養蚕所<ref>皇居内に現在でもある。<wp>紅葉山御養蚕所</wp></ref>に祭られている蚕祖神の分霊(大宜津比売神)を勧請し、熊野新宮神社に合祀される(相殿)。に祭られている蚕祖神の分霊([[大宜津比売神]])を勧請し、熊野新宮神社に合祀される(相殿)。
昭和30年代に市民センター建設の計画が進み、熊野新宮神社に移転してもらい、その跡地に市民センターが造られることになる。神社は西側に隣接する「波多野記念館」(グンゼ創業者の波多野鶴吉を顕彰する綾部市営施設。大正9年建設で老朽化していたため取り壊し)の跡地と敷地を交換することになり、そちらに社殿を建てて遷座した。
市民センターは昭和34年起工、昭和38年7月開館市民センターは昭和34年(1959年)起工、昭和38年7月開館<ref>『綾部市史 下巻』678~679頁</ref>。現在この市民センターは存在しない。令和元年(2019年)10月に若竹町に新しい市民センター「あやべ・日東精工アリーナ」がオープンした後、並松町の旧・市民センターの建物は解体された。
熊野新宮神社は昭和43年(1968年)4月8日、波多野記念館跡に社殿が竣工し遷座した<ref>『綾部市史 下巻』年表11頁</ref>。市民センター起工の昭和34年から社殿が完成する43年までは、神社の御神体は大本のみろく殿に仮に遷座していた。市民センター起工の昭和34年から社殿が完成する43年までは、神社の御神体は大本の[[みろく殿]]に仮に遷座していた<ref>『松のよはひ』182頁</ref>。後に京都府蚕糸連合会の建物も神社が入手し熊野新宮会館(氏子の参集所)となった<ref>『松のよはひ』183頁</ref>。
遷座する以前の熊野新宮神社の境内は、綾部高校敷地の東南部あたりまで広がっていた。
[[大本神諭]]に「明治二十五年に、初発に艮の金神が、出口直を氏神様へ披露して下されと申して、直を連れ参りた折、三日目に世に御披露が在りたから(略)」〔{{os|108|明治37年旧1月11日}}〕とある。つまり艮の金神が出口直に懸かり三千世界の立替立直しの大神業を開始されたことを諸国の神々に触れ回ったのが、熊野新宮神社の神である。
出口直はこのお礼として白藤を寄進し手植えした(明治25年<ref>「大本年表」</ref>)。この白藤は出口清吉(直の次男)が)。この白藤は[[出口清吉]](直の次男)が[[須知山]](質山)から採って来た藤である。
国祖は熊野新宮神社を総産土の神とされ、大本に入信する時には氏子として守護を願うように総産土社(熊野新宮神社境内にある末社)にも参詣するようになった。
=== 額・碑 ===
[[ファイル:熊野神社歌碑.jpg|thumb|大正10年に建立された[[出口王仁三郎]]の歌碑。]]
[[ファイル:熊野新宮神社2007-3.jpg|thumb|戦後再建された[[出口王仁三郎]]の歌碑。2007年8月撮影。]]
[[ファイル:熊野新宮神社2007-4.jpg|thumb|[[出口澄子]]の石碑。2007年8月撮影。]]
* 大鳥居に懸かる額は王仁三郎の書である。[[第二次大本事件]]の時に取り外され、[[改森仙吉]]が密かに保管していたが、昭和36年9月10日に大本に返還された。<ref name="B195401c1635" />
== 参考文献 ==
* 『熊野新宮神社御由緒略記』(パンフレット)昭和58年7月28日発行
* 『何鹿郡誌』大正15年(1926年)7月、京都府何鹿郡教育部会、264頁『何鹿郡誌』大正15年(1926年)7月、京都府何鹿郡教育部会、264頁、{{ndldl|1020239}}* 『綾部町史』昭和33年(1958年)6月、綾部町史編纂委員会、239~241頁『綾部町史』昭和33年(1958年)6月、綾部町史編纂委員会、239~241頁、{{ndldl|3014148}}* 『綾部市史 下巻』昭和54年(1979年)3月、綾部市役所、677頁「市民センターの建設」『綾部市史 下巻』昭和54年(1979年)3月、綾部市役所、677頁「市民センターの建設」、{{ndldl|9574260}}
* [[徳重高嶺]]『[[松のよはひ]]』平成9年(1997年):大本幹部で熊野新宮神社氏子総代だった徳重による神社の歴史が主に177~185頁、223~259頁に記されている。
* [https://ijurikkoku.com/area/furusato_ayabe9/ 【ふるさと探訪】旧市民センター 郷愁漂う公共施設] - 移住立国あやべ
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