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熊野新宮神社

152 バイト追加, 2023年11月24日 (金) 05:32
額・碑
昭和30年代に市民センター建設の計画が進み、熊野新宮神社に移転してもらい、その跡地に市民センターが造られることになる。神社は西側に隣接する「波多野記念館」(グンゼ創業者の波多野鶴吉を顕彰する綾部市営施設。大正9年建設で老朽化していたため取り壊し)の跡地と敷地を交換することになり、そちらに社殿を建てて遷座した。
市民センターは昭和34年起工、昭和38年7月開館市民センターは昭和34年(1959年)起工、昭和38年7月開館<ref>『綾部市史 下巻』678~679頁</ref>。現在この市民センターは存在しない。令和元年(2019年)10月に若竹町に新しい市民センター「あやべ・日東精工アリーナ」がオープンした後、並松町の旧・市民センターの建物は解体された。
熊野新宮神社は昭和43年(1968年)4月8日、波多野記念館跡に社殿が竣工し遷座した<ref>『綾部市史 下巻』年表11頁</ref>。市民センター起工の昭和34年から社殿が完成する43年までは、神社の御神体は大本のみろく殿に仮に遷座していた。市民センター起工の昭和34年から社殿が完成する43年までは、神社の御神体は大本の[[みろく殿]]に仮に遷座していた<ref>『松のよはひ』182頁</ref>。後に京都府蚕糸連合会の建物も神社が入手し熊野新宮会館(氏子の参集所)となった<ref>『松のよはひ』183頁</ref>。
遷座する以前の熊野新宮神社の境内は、綾部高校敷地の東南部あたりまで広がっていた。
[[大本神諭]]に「明治二十五年に、初発に艮の金神が、出口直を氏神様へ披露して下されと申して、直を連れ参りた折、三日目に世に御披露が在りたから(略)」〔{{os|108|明治37年旧1月11日}}〕とある。つまり艮の金神が出口直に懸かり三千世界の立替立直しの大神業を開始されたことを諸国の神々に触れ回ったのが、熊野新宮神社の神である。
出口直はこのお礼として白藤を寄進し手植えした(明治25年<ref>「大本年表」</ref>)。この白藤は出口清吉(直の次男)が)。この白藤は[[出口清吉]](直の次男)が[[須知山]](質山)から採って来た藤である。
国祖は熊野新宮神社を総産土の神とされ、大本に入信する時には氏子として守護を願うように総産土社(熊野新宮神社境内にある末社)にも参詣するようになった。
=== 額・碑 ===
[[ファイル:熊野神社歌碑.jpg|thumb|大正10年に建立された[[出口王仁三郎]]の歌碑。]][[ファイル:熊野新宮神社2007-3.jpg|thumb|戦後再建された[[出口王仁三郎]]の歌碑。2007年8月撮影。]]
[[ファイル:熊野新宮神社2007-4.jpg|thumb|[[出口澄子]]の石碑。2007年8月撮影。]]

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