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王仁三郎本人は自分が作った楽焼茶碗を特別な呼び方はしていない。「楽焼」「茶碗」「楽茶碗」等の一般的な呼び方をしていたようである。ただし「わん」の字に「琓」を宛てて「茶琓」と表記している場合がある。王仁三郎は前期の作陶の時から「茶琓」という文字を使っている。王仁三郎本人は自分が作った楽焼茶碗を特別な呼び方はしていない。「楽焼」「茶碗」「楽茶碗」等の一般的な呼び方をしていたようである。ただし「わん」に「琓」(王+完)という漢字を宛てて「茶琓」と表記している場合がある。王仁三郎は前期の作陶の時から「茶琓」という文字を使っている。<ref>[[出口信一]]・監修『[[出口王仁三郎 耀琓 (書籍)]]』p255に前期作品である「岩戸」と「高尾」の箱書の写真が掲載されており、そこには「薄茶々琓」と記されている。</ref> <ref>『耀琓』p251(中村六郎「王仁三郎の芸術」)「師のお始めになった大正十五年の時から茶琓という字を使われました。茶琓の琓は玉(ぎょく)の王であり完(まったし)であります」『[[出口王仁三郎 耀琓]]』p251(中村六郎「王仁三郎の芸術」)「師のお始めになった大正十五年の時から茶琓という字を使われました。茶琓の琓は玉(ぎょく)の王であり完(まったし)であります」</ref> <ref>前期作陶中の歌日記に「茶琓」と表記している歌があるようだが未確認。</ref>
前期(大正15年2月から昭和10年12月第二次大本事件までの約10年間)の作品については約5千個という推測がある。だが第二次大本事件の際、当局の弾圧によりその多くは破却され、現存するものは少ない。前期(大正15年2月から昭和10年12月第二次大本事件までの約9年10ヶ月)の作品については約5千個という推測がある。だが第二次大本事件の際、当局の弾圧によりその多くは破却され、現存するものは少ない。<ref>『立替え立直し 人類愛善世界の提唱』(昭和46年、出口王仁三郎生誕百年記念会)p97、加藤義一郎「茶盌師王仁」:「約五千の楽焼茶盌を造っていたという。しかし当時の官憲の峻烈な弾圧は、如何なる一物もいやしくも彼の息のかかったものの遺存を許さなかったので、一旦眼に触れれば容赦なく破毀され、五千を数えたという楽焼も、より多くの書画の筆蹟同様殆ど亡失したのである。それ故偶然に残った極めて稀な例以外には、前期の作を窺うすべはない。」</ref>
後期(昭和19年年末から昭和20年3月までの約1年3ヶ月)の作品つまり耀盌の個数については「3000個」や「3000個以上」と紹介している場合が多い。後期(昭和19年年末から昭和21年3月までの約1年3ヶ月)の作品つまり耀盌の個数については「3000個」や「3000個以上」と紹介している場合が多い。
ただしこれは単なる推測の数字に過ぎない。作品数についてはっきり分かっている数字は「36回」窯を焚いたということだけである(ただしこれは単なる推測の数字に過ぎない。数についてはっきり分かっている数字は「36回」窯を焚いたということだけである([[佐々木松楽]]の記録による<ref>出口信一・監修『耀琓』p266出口信一・監修『[[出口王仁三郎 耀琓]]』p266-267、[[窪田英治]]の発言「先ほどご紹介した「花明山夜話」の座談会記事の中で、二代さま(出口すみ教主)が、松楽さんに、「何ぼ、窯したのかい」って問われますと、「'''三十六回'''でした」と答えておられる。そこで「自然にそうなったのか」聞かれたのに対して「後で帳面の記録を見たら偶然そうなっていました」とありますね」(文中の「花明山夜話」とは『木の花』昭和26年8月号に掲載された「花明山夜話(12)」のこと)</ref> <ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c653|3 新生への準備}}」:「作業は一九四六(昭和二一)年の三月に、'''三六回目'''の窯をもっておわりとなり、焼きあげられたものはじつに三〇〇〇個にたっした」</ref>)。その窯の大きさは内径が1尺8寸(約55cm)で、1回に茶碗が10個ほどしか入らない<ref>『耀琓』p261、佐々木輝夫(佐々木松楽の子息)の発言「つまり尺八寸の窯、ということは内寸一尺八寸の窯なのです。だから茶盌が一回に十くらいしか入らない」『[[出口王仁三郎 耀琓]]』p261、佐々木輝夫(佐々木松楽の子息)の発言「つまり尺八寸の窯、ということは内寸一尺八寸の窯なのです。だから茶盌が一回に十くらいしか入らない」</ref>。それを10回なり20回なり繰り返せば100~200個の茶碗が焼き上がる。その中から割れたりしたものを省いて良いものだけを使うと、最低で3千個は完成したのではないのかという推測だと思われる。また「三千世界一度に開く梅の花」など大本は三千という数字に因縁があるため、仮に3千個ということにしているのではないかと思われる。
当初は電気窯を使っていたため、夜しか焼けない(電力供給の問題か?)、ヒューズが切れた、停電などの理由で、作業が進まないことがあり、『真如能光』の歌日記には「電気釜ヒューズが切れて楽素焼今日一日を棒に振りけり」など作業中止の歌がたびたび掲載されている。当初は電気窯を使っていたため、夜しか焼けない(電力供給の問題か?)、ヒューズが切れた、停電などの理由で、作業が進まないことがあり、『真如能光』の歌日記には「電気釜ヒューズが切れて楽素焼今日一日を棒に振りけり」<ref>『真如能光』大正15年(1926年)6月5日号p12 歌日記の5月11日の項</ref>など作業中止の歌がたびたび掲載されている。
耀盌
,→脚注
'''耀盌'''(ようわん)とは、[[出口王仁三郎]]が作陶した楽焼茶碗のこと。王仁三郎の楽焼作品は前期(大正15年~昭和初期)と後期(昭和20年~21年3月)があり、後期の作品を「耀盌」と呼ぶ。耀盌は彩色が鮮やかなことが特徴である。本項では前期の作品も含めて解説する。が作陶した楽焼茶碗の通称。王仁三郎が命名した名称ではなく、他人が名付けた愛称である(「[[#名称]]」参照)。王仁三郎の楽焼作品は前期(大正15年~昭和初期)と後期(昭和19年末~21年3月)があり、後期の作品が「耀盌」と呼ばれている。耀盌は彩色が鮮やかなことが特徴である。本項では前期の作品も含めて解説する。
== 名称 ==
「耀盌」は王仁三郎が命名したものではない。陶芸評論家の[[加藤義一郎]]が名付けた名称である。が名付けた名称である<ref>[[大本教学研鑽所]]・編『[[大本のおしえ]]』(昭和42年、天声社)p216「最近とくに、世人を感動せしめたものに、手造りの楽焼茶盌がある。これを〝耀盌〟と名づけて、初めて世に紹介したのは、『茶盌抄』の著者、加藤義一郎氏である」</ref> <ref>伊藤栄蔵・著、大本本部・監修『新宗教創始者伝・大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯』(昭和59年、講談社)p232「加藤はその紹介文の見出しを「耀盌顕現」とつけた。耀(かがや)くばかりの茶盌という意味である。以後、「耀盌」は聖師の後期楽焼の固有名詞となった」[[伊藤栄蔵]]・著、[[大本本部]]・監修『[[大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯]]』(昭和59年、講談社)p232「加藤はその紹介文の見出しを「耀盌顕現」とつけた。耀(かがや)くばかりの茶盌という意味である。以後、「耀盌」は聖師の後期楽焼の固有名詞となった」</ref>。加藤は昭和24年(1949年)『[[日本美術工芸]]』3月号で「耀盌顕現」という記事を書いたが、これが「耀盌」という言葉が世に顕れた初めである(「[[#昇天後の歴史]]」参照)。
そのため「耀盌」ではなく「耀琓」と表記する人もいる。
王仁三郎が作陶した楽焼茶碗の数は、前期も後期もはっきり分かっていない。
【例】
* 「焼きあげられたものはじつに三〇〇〇個にたっした」〔大本七十年史<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c653|3 新生への準備}}」(昭和42年、宗教法人大本)p684</ref>〕
3000個説以外に、3600個と推測したり<ref>【例】[[木庭次守]]・編『[[新月の光]]』「楽茶碗(茶碗天国)」(八幡版下巻p308):「昭和十九年に準備し、昭和二十年に窯から三十六回、一回百個、合計'''三千六百個'''を出された」</ref>、7200個と推測する人もいる。
== 前期の歴史 ==
一番最初の楽焼は、大正15年(1926年)1月24日に王仁三郎が買い物で京都に行った際、大丸百貨店で即席の楽焼窯が催されており、王仁三郎は自ら絵付けをして焼いた茶碗を10個ほど持ち帰った。茶碗の外側には「光照」と文字が揮毫されてあり、光照殿の完成記念(大正14年10月25日竣成)として配ったようである。これが王仁三郎が楽焼を始めた最初とされる。<ref name="singinidou_p118">『真偽二道』p118</ref> <ref>『耀琓』p268『[[出口王仁三郎 耀琓]]』p268</ref> <ref name="rakuinmondai8">[[出口和明]]「落胤問題を実証する 八」『[[神の国]]』平成13年(2001年)12月号掲載</ref> <ref>『真如能光』第10号「天恩郷だより」p35、1月24日の項「聖師様午前十時三十分列車にて京都に御出浮。井内鐵外氏、鈴木少年御供申上ぐ。即日御帰亀。京都大丸呉服店楼上に素焼楽焼の陶器に親しく種々の書画を認められ即席に電気炉を以て焼上げさして来訪の各信者に頒たれ、お土産に寿老人の像を始め菓子器、湯呑、抹茶々椀、一輪生など種々面白き物をお持ち帰りになる。尚大丸重役連の記念の為にと乞ふが侭に与へられ、エプロン姿で御揮毫中を是又記念にとて撮影を許されたり。」</ref> <ref name="oomotonenpyou">『大本年表』</ref>
その後、1月28日にも再び大丸へ行き楽焼茶碗を焼いている。<ref>『真如能光』第10号「天恩郷だより」p38、1月28日の項「(略)大丸呉服店に入られ再び楽焼に御揮毫遊ばさる。」</ref>
当初は素焼きの茶碗を大量に購入し、王仁三郎が絵付けをして、電気窯で焼き上げるというスタイルで作陶が行われていた。完成した茶碗は短歌や句の賞品としてもどんどん与えられて行った。前期の楽焼作りを手伝ったのは[[谷前清子]]である。<ref name="rakuinmondai8" />
昭和4年(1929年)7月20日に[[天恩郷]]に楽焼製作所の「[[清楽舎]]」(後に「蓮月庵」と改名)が竣工する。その隣には楽焼窯が作られ「[[亀楽窯]]」と命名された。この亀楽窯を作ったのは京都清水の陶工の[[佐々木吉之助佐々木吉之介]]([[佐々木松楽]]の父)である。<ref name="rakuinmondai8" />
前期の作品で特筆すべきは「斎入(さいにゅう)」と呼ぶ、外見的な特徴が顕れた茶碗が多数あることである(後述)。
== 後期の歴史 ==
[[第二次大本事件]]で投獄された王仁三郎は、獄中にいる時から、楽焼茶碗で天国の姿を表現したいという意欲を持っていた。出獄後もその意欲はあったが、戦時統制下で材料が入手できず、実行できなかった。京都清水の窯元・[[佐々木松楽]]が亀岡の下矢田に転居したことを知った王仁三郎は、昭和19年(1944年)12月28日の夜、松楽宅を訪ね、土をひねり、下焼きがなされた。年が明けて昭和20年元旦に、その茶碗に染筆、1月3日に釉薬を塗り、約60個の楽焼茶碗が完成した。これが後期作陶の始まりである。以後、王仁三郎の茶碗作りの作業はほぼ連日続けられた。(しょうらく)が亀岡の下矢田に転居したことを知った王仁三郎は、昭和19年(1944年)12月28日の夜、松楽宅を訪ね、土をひねり、下焼きがなされた。年が明けて昭和20年元旦に、その茶碗に染筆、1月3日に釉薬を塗り、約60個の楽焼茶碗が完成した。これが後期作陶の始まりである。以後、王仁三郎の茶碗作りの作業はほぼ連日続けられた。<ref name="B195402c653">『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c653|3 新生への準備}}」</ref> <ref>『耀琓』p262上段『[[出口王仁三郎 耀琓]]』p262上段</ref>
王仁三郎一人で作陶したわけではなく、佐々木松楽(土練りと窯焚きを行った)、[[内海健郎]]、[[山川日出子]]の3人が終始手伝った。<ref name="B195402c653" />
== 昇天後の歴史 ==
王仁三郎が作った楽焼茶碗は、信徒にとっては信仰的な意味で価値が高いものだが、信徒以外でその芸術的価値を高く評価したのは、[[加藤義一郎]](工芸美術の評論家、日本美術工芸社主幹)が最初である。加藤は昭和24年(1949年)2月、岡山県伊部町の[[金重陶陽]](備前焼の陶匠、昭和31年に人間国宝に認定<ref><wp>金重陶陽</wp></ref>)を訪問し、王仁三郎作の楽焼茶碗「天国廿八」と「御遊(ぎょゆう)」を見て感激した。その感想を『日本美術工芸』誌の同年3月号に「耀盌顕現」と題して発表した。また8月号では「耀盌〝天国廿八─出口王仁師手造茶盌〟」と題する論評を発表した。)を訪問し、そこで王仁三郎作の楽焼茶碗「天国廿八」と「御遊(ぎょゆう)」を見て感激した。その感想を『日本美術工芸』誌の同年3月号に「耀盌顕現」と題して発表した。また8月号では「耀盌〝天国廿八─出口王仁師手造茶盌〟」と題する論評を発表した。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c7452|楽天社の発足宣言とその活動}}」</ref>
これにより大本でも、王仁三郎の楽焼茶碗を「耀盌」と呼ぶようになった。
少年時代に大本で奉仕した[[中村六郎]](備前焼の陶芸家<ref><wp>中村六郎</wp></ref>)は次のように記している。
{{inyou|前期楽茶琓の中に二十六個、すばらしいお茶琓があったそうで「サイニュー」のある茶琓で、師が大切にされていたそうであります。(大本弾圧)事件のため全部没収されたそうです。少年期の奉仕者の私には神様のことも、無論楽茶琓についてもわかる訳はありません。(略)「サイニュー」とは楽茶琓の窯変であり、窯の温度の変化により釉(ゆ)が煮えて出来るもので、小豆粒より小さいふくれが、茶琓の内面の茶溜に出来、その彩(いろ)どりが美しい、景色となっております。(略)「サイニュー」とは陶磁器用語には無く、師の茶琓にのみ出来た窯変のため、師がお考えになった造語ではないかと思われます。私なりに考えたのですが、彩入(彩乳)綵入(綵乳)といった字をあてて見ました。大本の文献にも無く、口伝で残っているだけであります。幻の茶琓となり残念でなりません。|『耀琓』p251、中村六郎「王仁三郎の芸術」『[[出口王仁三郎 耀琓]]』p251、中村六郎「王仁三郎の芸術」}}
中村六郎は「大本の文献にも無く、口伝で残っているだけ」と書いているが、実際には大本文献に記され、「斎入」という文字が宛てられている。
== 関連書籍 ==
* 木の花別冊『[[出口王仁三郎の楽茶盌]]』:昭和30年(1955年)に発行されたこの冊子の題名では「耀盌」と呼んでいないので、この時点はまだ大本教団内において「耀盌」という呼び方がポピュラーではなかったと思われる。ただし本文内では「耀盌」と呼んでいる。* 『[[耀盌 (書籍)出口王仁三郎楽茶盌名品]] 出口王仁三郎手造り楽茶盌名品集』1971年、講談社(B4変形版、214頁)』1971年、講談社(B4変形版、214頁)* 出口信一・監修、西村學・編『出口王仁三郎 出口信一・監修、西村學・編『[[出口王仁三郎 耀琓 (書籍)]]』1996年、国書刊行会
== 外部リンク ==
* [https://oomoto.or.jp/wp/oshie/onisaburo_youwan/ 出口王仁三郎の耀盌] - 宗教法人大本公式サイト宗教法人大本公式サイト。* [https://shorakugama.com/ 昭楽窯](しょうらくがま) - 佐々木吉之介を創始者とする楽焼窯元の公式サイト。
== 脚注 ==
{{デフォルトソート:ようわん}}
[[Category:用語]]
[[Category:芸術出口王仁三郎の芸術]]