「田村月樵」の版間の差分

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王仁三郎の父・[[上田吉松]](婿入り前の名前は[[佐野梅吉]])の兄または姉の子供だと思われるが詳細は不明。
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第八歌集『[[青嵐]]』に「従兄月樵」という項があり、明治32年(1899年)1月に京都の稲荷大社に参拝した帰途、篠村(現在の亀岡市篠町)の闇宮(くらがりのみや)(現・王子神社)を参拝し、田村月樵と会って話したことが歌われている。
第八歌集『[[青嵐]]』に「従兄月樵」という項があり、王仁三郎は明治32年(1899年)1月に京都の稲荷大社に参拝した帰途、篠村(現在の亀岡市篠町)の闇宮(くらがりのみや)(現・王子神社)を参拝し、田村月樵と会って話したことが歌われている。『丹波人物志』(下の資料参照)に「父の死後、母もよは月樵を連れて篠村王子の神官栗山右近の後妻となつた」とあるので、明治32年当時、月樵は王子神社に住んでいたのかも知れない。


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月樵はうなづきながら神国《かみくに》の前途のために尽せと教ふる
月樵はうなづきながら神国《かみくに》の前途のために尽せと教ふる
|出口王仁三郎『[[青嵐]]』pp.24-25 }}
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田村月樵には実子がなく、養子が田村家を継いだ。<ref>長舟洋司(京都文化博物館学芸員)「田村宗立関連資料の整理と紹介」p.68、『鹿島美術研究』(年報第22号別冊)2005年、pp.68-76収録</ref>


== 経歴が記されている資料 ==
== 経歴が記されている資料 ==
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* 出口王仁三郎「{{obc|B195305c103|故郷の二十八年}}」:「父(注・王仁三郎の父の佐野梅吉)は丹波国船井郡川辺村字船岡<ref>現在の南丹市園部町船岡。</ref>の佐野五郎右衛門の八男と生まれたのである」「彼の有名なる仏画の巨匠田村月樵翁は、佐野家に生まれたのである。王仁とは従兄弟の間柄である」<ref>『[[大本七十年史]]』や『[[大地の]]母』では、佐野梅吉は[[佐野清六]]の次男ということになっている。これは戸籍にそのように記されているからのようである。王仁三郎本人の主張と戸籍の内容が異なる理由は不明。</ref>
* 出口王仁三郎「{{obc|B195305c103|故郷の二十八年}}」:「父(注・王仁三郎の父の佐野梅吉)は丹波国船井郡川辺村字船岡<ref>現在の南丹市園部町船岡。</ref>の佐野五郎右衛門の八男と生まれたのである」「彼の有名なる仏画の巨匠田村月樵翁は、佐野家に生まれたのである。王仁とは従兄弟の間柄である」<ref>『[[大本七十年史]]』や『[[大地の]]母』では、佐野梅吉は[[佐野清六]]の次男ということになっている。これは戸籍にそのように記されているからのようである。王仁三郎本人の主張と戸籍の内容が異なる理由は不明。</ref>
* 平井啓修「田村宗立研究─先行研究と所蔵資料の考察─」<ref>『Cross sections 京都国立近代美術館研究論集 Vol.8』2016年、24~35頁</ref>には信頼性の高い次の2つの情報が記されている。
* 平井啓修「田村宗立研究─先行研究と所蔵資料の考察─」<ref>『Cross sections 京都国立近代美術館研究論集 Vol.8』2016年、24~35頁</ref>:田村宗立自筆の経歴資料によると「弘化三年八月二〇日に丹波国舟井郡河内村で生まれ、父の名は田村式部源宗貫で中山家に仕え、母の名は尚子」
** 田村宗立自筆の経歴資料によると「弘化三年八月二〇日に丹波国舟井郡河内村で生まれ、父の名は田村式部源宗貫で中山家に仕え、母の名は尚子」
* 長舟洋司「田村宗立関連資料の整理と紹介」p.73:「遺族によると、弘化3年5月8日生まれ、大正7年7月10日没。父の名は(貫立)式部、母はナミ。ちなみに、父・式部は医師。公卿の中山家に仕えたというが、資料では確認できない。医師であったから典薬寮の中山家であったかもしれない。宗立は、御所北面を勤めた速水家から妻・トモを娶っている」「園部近在[船井郡上河内村]には母・ナミの生家があり、現在は京都府船井郡園部町内」
** 長舟洋司(京都文化博物館学芸員)によると「弘化三年五月八日生まれ、大正七年七月一〇日没。父の名は(貫立)式部、母はナミ」「園部近在[船井郡上河内村]には母・ナミの生家があり」<ref>原拠は長舟洋司「田村宗立関連資料の整理と紹介」『鹿島美術研究』(年報第22号別冊)2005年、74頁</ref>
* 黒田譲・著『[https://dl.ndl.go.jp/pid/778769/1/82 名家歴訪録 中編]』明治32年(1899年)、p.123:本人の談「元私の生国は丹波の園部近在で厶いまして、父は名を式部と云ひ、公卿の中山家に仕へて居りました。夫で私は三歳の時京都に参り、此方で生長致し、其後亀岡、其頃は亀山と申しましたがそこへ参り、十歳の時まで居りました」「元治元年の五月、私は十九歳の時父は歿しまして(略)」<ref>中山家の中山慶子(1836~1907年)は明治天皇の生母。</ref> <ref>元治元年=1864年</ref>
* https://dl.ndl.go.jp/pid/778769/1/82
** 本人の談「元私の生国は丹波の園部近在で厶いまして、父は名を式部と云ひ、公卿の中山家に仕へて居りました。夫で私は三歳の時京都に参り、此方で生長致し、其後亀岡、其頃は亀山と申しましたがそこへ参り、十歳の時まで居りました」「元治元年の五月、私は十九歳の時父は歿しまして(略)」<ref>中山家の中山慶子(1836~1907年)は明治天皇の生母。</ref> <ref>元治元年=1864年</ref>
* https://dl.ndl.go.jp/pid/933863/1/502
* https://dl.ndl.go.jp/pid/933863/1/502
**「弘化三年八月二十日丹波国園部に生る、田村式部氏の長男」
**「弘化三年八月二十日丹波国園部に生る、田村式部氏の長男」
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* https://dl.ndl.go.jp/pid/1183769/1/82
* https://dl.ndl.go.jp/pid/1183769/1/82
* https://dl.ndl.go.jp/pid/926794/1/42
* https://dl.ndl.go.jp/pid/926794/1/42
* https://dl.ndl.go.jp/pid/3451915/1/178
* 松井拳堂・著『[https://dl.ndl.go.jp/pid/3451915/1/178 丹波人物志]』昭和35年(1960年)、「丹波人物志」「増訂丹波史年表」刊行会・発行、p.327:「南桑田郡柏原の人、父の源仲は孝子文右衛門の孝に感じ施薬した医師である。父の死後、母もよは月樵を連れて篠村王子の神官栗山右近の後妻となつた。月樵は十歳となつてその家庭の人となるを忌み、入洛して(略)」<ref>「柏原」は現在の亀岡市篠町の一部。明治22年(1889年)に桑田郡の篠村や柏原村などが合併し、新たに南桑田郡篠村が誕生した。</ref> <ref>「孝子」は、親孝行な子の意。</ref>
** 「南桑田郡柏原の人、父の源仲は孝子文右衛門の孝に感じ施薬した医師である。父の死後、母もよは月樵を連れて篠村王子の神官栗山右近の後妻となつた。月樵は十歳となつてその家庭の人となるを忌み、入洛して(略)」<ref>「柏原」は現在の亀岡市篠町の一部。明治22年(1889年)に桑田郡の篠村や柏原村などが合併し、新たに南桑田郡篠村が誕生した。</ref> <ref>「孝子」は、親孝行な子の意。</ref>
* https://dl.ndl.go.jp/pid/936721/1/190
* https://dl.ndl.go.jp/pid/936721/1/190
* https://dl.ndl.go.jp/pid/1874398/1/288
* https://dl.ndl.go.jp/pid/1874398/1/288

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田村月樵(たむら げっしょう、1846~1918年)は、画家。出口王仁三郎の従兄。別名・田村宗立(そうりゅう、むねたつ)。

王仁三郎の父・上田吉松(婿入り前の名前は佐野梅吉)の兄または姉の子供だと思われるが詳細は不明。

第八歌集『青嵐』に「従兄月樵」という項があり、王仁三郎は明治32年(1899年)1月に京都の稲荷大社に参拝した帰途、篠村(現在の亀岡市篠町)の闇宮(くらがりのみや)(現・王子神社)を参拝し、田村月樵と会って話したことが歌われている。『丹波人物志』(下の資料参照)に「父の死後、母もよは月樵を連れて篠村王子の神官栗山右近の後妻となつた」とあるので、明治32年当時、月樵は王子神社に住んでいたのかも知れない。

くらがりの宮の社務所に立寄りて従兄《いとこ》の田村月樵を訪ふ

くらがりの宮の笠松《かさまつ》幹ふとく丈《たけ》たかくして天にのびをり

久闊《きうくわつ》を叙せば従兄の月樵は何してゐるかとしみじみ尋ぬる

去年《こぞ》の春ゆ惟神の道に仕へしといへば月樵黙《もだ》しゐたりき

ややしばしありて月樵おもむろに絵を学べよとわれにすすむる

絵の道はわれ好めどもかむながら神の道にはそむけじと答ふ

月樵はうなづきながら神国《かみくに》の前途のために尽せと教ふる

出典:出口王仁三郎『青嵐』pp.24-25

田村月樵には実子がなく、養子が田村家を継いだ。[1]

経歴が記されている資料

田村月樵の出生や経歴については諸説ある。

  • 出口王仁三郎「故郷の二十八年#」:「父(注・王仁三郎の父の佐野梅吉)は丹波国船井郡川辺村字船岡[2]の佐野五郎右衛門の八男と生まれたのである」「彼の有名なる仏画の巨匠田村月樵翁は、佐野家に生まれたのである。王仁とは従兄弟の間柄である」[3]
  • 平井啓修「田村宗立研究─先行研究と所蔵資料の考察─」[4]:田村宗立自筆の経歴資料によると「弘化三年八月二〇日に丹波国舟井郡河内村で生まれ、父の名は田村式部源宗貫で中山家に仕え、母の名は尚子」
  • 長舟洋司「田村宗立関連資料の整理と紹介」p.73:「遺族によると、弘化3年5月8日生まれ、大正7年7月10日没。父の名は(貫立)式部、母はナミ。ちなみに、父・式部は医師。公卿の中山家に仕えたというが、資料では確認できない。医師であったから典薬寮の中山家であったかもしれない。宗立は、御所北面を勤めた速水家から妻・トモを娶っている」「園部近在[船井郡上河内村]には母・ナミの生家があり、現在は京都府船井郡園部町内」
  • 黒田譲・著『名家歴訪録 中編』明治32年(1899年)、p.123:本人の談「元私の生国は丹波の園部近在で厶いまして、父は名を式部と云ひ、公卿の中山家に仕へて居りました。夫で私は三歳の時京都に参り、此方で生長致し、其後亀岡、其頃は亀山と申しましたがそこへ参り、十歳の時まで居りました」「元治元年の五月、私は十九歳の時父は歿しまして(略)」[5] [6]
  • https://dl.ndl.go.jp/pid/933863/1/502
    • 「弘化三年八月二十日丹波国園部に生る、田村式部氏の長男」
  • https://dl.ndl.go.jp/pid/851286/1/24
    • 「田村宗貫ノ男ナリ」
  • https://dl.ndl.go.jp/pid/851283/1/141
    • 「田村宗貫ノ男ニシテ」
  • https://dl.ndl.go.jp/pid/1183769/1/82
  • https://dl.ndl.go.jp/pid/926794/1/42
  • 松井拳堂・著『丹波人物志』昭和35年(1960年)、「丹波人物志」「増訂丹波史年表」刊行会・発行、p.327:「南桑田郡柏原の人、父の源仲は孝子文右衛門の孝に感じ施薬した医師である。父の死後、母もよは月樵を連れて篠村王子の神官栗山右近の後妻となつた。月樵は十歳となつてその家庭の人となるを忌み、入洛して(略)」[7] [8]
  • https://dl.ndl.go.jp/pid/936721/1/190
  • https://dl.ndl.go.jp/pid/1874398/1/288
  • https://www.mizuyama.com/C/4-tamura-souryu.htm
    • 「弘化3年(1846)8月丹波国園部に田村宗貫と佐野忠左衛門の次女ナミとの間に生まれる」(出典不明)

外部リンク

  • <kb>田村宗立</kb>
  • <kb>田村 宗立</kb>
  • <wp>田村宗立</wp>「丹波国船井郡河内村(現在の京都府南丹市)に田村宗貫と佐野忠左衛門の次女尚子との間に生まれる」(出典不明)

脚注

  1. 長舟洋司(京都文化博物館学芸員)「田村宗立関連資料の整理と紹介」p.68、『鹿島美術研究』(年報第22号別冊)2005年、pp.68-76収録
  2. 現在の南丹市園部町船岡。
  3. 大本七十年史』や『大地の母』では、佐野梅吉は佐野清六の次男ということになっている。これは戸籍にそのように記されているからのようである。王仁三郎本人の主張と戸籍の内容が異なる理由は不明。
  4. 『Cross sections 京都国立近代美術館研究論集 Vol.8』2016年、24~35頁
  5. 中山家の中山慶子(1836~1907年)は明治天皇の生母。
  6. 元治元年=1864年
  7. 「柏原」は現在の亀岡市篠町の一部。明治22年(1889年)に桑田郡の篠村や柏原村などが合併し、新たに南桑田郡篠村が誕生した。
  8. 「孝子」は、親孝行な子の意。