「昭和 (機関誌)」の版間の差分
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* 誌代は1部10銭だったが、昭和6年(1931年)10月、王仁三郎が[[昭和青年会]]の会長に就任したの機に、昭和7年1月号より1部20銭に値上げし、頁数も増加された。<ref>『昭和青年』昭和6年(1931年)12月号p85の「急告」に「会長の御意志にもとづいて本誌代は従来一部十銭の処、明年一月号より内容の充実を計り、一大飛躍を決行すべく誌代を一部二十銭に致す事になりました」とある。</ref> | * 誌代は1部10銭だったが、昭和6年(1931年)10月、王仁三郎が[[昭和青年会]]の会長に就任したの機に、昭和7年1月号より1部20銭に値上げし、頁数も増加された。<ref>『昭和青年』昭和6年(1931年)12月号p85の「急告」に「会長の御意志にもとづいて本誌代は従来一部十銭の処、明年一月号より内容の充実を計り、一大飛躍を決行すべく誌代を一部二十銭に致す事になりました」とある。</ref> | ||
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2022年7月25日 (月) 17:24時点における版
昭和(しょうわ)は、昭和青年会の機関誌。元は『昭和青年』という題だった。
- 昭和5年(1930年)5月に創刊。[1]
- 『会友』が『昭和青年』に改題され創刊された。[2]
- 機関誌は当初はガリ版刷りの粗末なものだったが、3号目から王仁三郎の資金補助で印刷出版されるようになった。[3]
- 誌代は1部10銭だったが、昭和6年(1931年)10月、王仁三郎が昭和青年会の会長に就任したの機に、昭和7年1月号より1部20銭に値上げし、頁数も増加された。[4]
- 昭和7年(1932年)12月号から『昭和』に改題。昭和坤生会が発会(昭和7年11月)してからは女性向きの記事もかなり掲載されるようになった。[5] [6]
脚注
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「本部の体制#」
- ↑ 『昭和青年』昭和5年(1930年)5月号の表紙に「会友改題」と書いてある。同号p62「編輯後記」にも「今迄会友として狭い範囲に限られてゐた本誌は今度昭和青年と改題して、全国的に伸びて行く計画です」と記されている。この『会友』はおそらく「亀岡青年雄弁会」の会誌だと思われる。亀岡青年雄弁会は昭和青年会に合併された、
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「人類愛善と青年の動き#」
- ↑ 『昭和青年』昭和6年(1931年)12月号p85の「急告」に「会長の御意志にもとづいて本誌代は従来一部十銭の処、明年一月号より内容の充実を計り、一大飛躍を決行すべく誌代を一部二十銭に致す事になりました」とある。
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「文書宣伝#」
- ↑ 『昭和青年』昭和7年(1932年)11月号p62に改題理由として「「昭和青年誌」の発展に伴ひ題号「昭和青年」では読者層が一部青年に限られる弊あり今後全日本の大衆を把握するには不向の趣あるに鑑み」て改題すると記されている。