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始めはB4版、月刊だったが、後にB5版、月2回刊になり、さらに旬刊(10日ごとに発行)になった。 | 始めはB4版、月刊だったが、後にB5版、月2回刊になり、さらに旬刊(10日ごとに発行)になった。 | ||
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大正5年([[1916年]])4月11日に「[[根本学社]]」から『[[このみち]]』が創刊されたが、その後、『敷島新報』と『このみち』が合併し、誌名が『敷島新報・このみち』になった。 | 大正5年([[1916年]])4月11日に「[[根本学社]]」から『[[このみち]]』が創刊されたが、その後、『敷島新報』と『このみち』が合併し、誌名が『敷島新報・このみち』になった。 | ||
[[浅野和三郎]]の大本入りを機に、大正6年([[1917年]])1月、『[[神霊界]]』と改題し月刊となった。 | [[浅野和三郎]]の大本入りを機に、大正6年([[1917年]])1月、『[[神霊界]]』と改題し月刊となった。 | ||
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+ | * 『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c2122|「敷島新報」と直霊軍部隊}}」p330 | ||
+ | * 『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c2131|改称の理由}}」p340 | ||
+ | * 『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c2141|創刊の辞と檄}}」p351 | ||
== 脚注 == | == 脚注 == | ||
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2022年3月29日 (火) 08:36時点における最新版
敷島新報(しきしましんぽう)(敷嶋新報)は、大正時代の大本の機関誌。
廃刊となった『直霊軍』にかわるものとして、大正3年(1914年)8月15日に創刊された。
始めはB4版、月刊だったが、後にB5版、月2回刊になり、さらに旬刊(10日ごとに発行)になった。
『直霊軍』同様、執筆から印刷・製本・発送まで出口王仁三郎が一人で行っていた。[1]
大正5年(1916年)4月11日に「根本学社」から『このみち』が創刊されたが、その後、『敷島新報』と『このみち』が合併し、誌名が『敷島新報・このみち』になった。
浅野和三郎の大本入りを機に、大正6年(1917年)1月、『神霊界』と改題し月刊となった。