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長沢雄楯

1,036 バイト追加, 2021年10月31日 (日) 03:36
稲荷講社
実子はいない。門人の吹田政吉が養子になるが長沢姓を名乗らなかった。
 
== 稲荷講社 ==
『[[神霊界]]』大正6年(1917年)11月号掲載の、[[湯浅仁斎]]「教主の熱誠(続)」p42によると、稲荷講社設立の経緯は次の通りである。
 
明治25年(1892年)<ref>『本田親徳研究』p461では、明治24年になっている。</ref>に、[[月見里神社]]で給仕をしていた宮城野金作という15歳の童子に突然、御穂神社の高等眷属・八千彦之命が神懸かった。そして次のお告げを長沢に伝えよと言う──稲荷の神は飯成の神であって、衣食住の守り神である。しかし世人の多くはこの大神と狐を同一視して、稲荷とは狐のことだと誤解する者が多い。この世人の誤解を解くために、神社附属の稲荷講社を作り、君国のため、神界のために尽くせ──。長沢はこの八千彦之命の教えに従い、官の認可を得て、稲荷講社を開設した。
== 出口王仁三郎との関係 ==
『[[本田親徳研究]]』p474によると、長沢は「著述をのこすことをせず後進の育成には講義の外法術の指導を主とした」。従って本人が書いた著書は存在しない。しかし本人の講話等を記録したものとして、次の三著が挙げられている。
# 門人の武栄太夫が編纂した「神憑百首」。『本田親徳研究』p478門人の武栄太夫が編纂した「神憑百首」。18頁の小冊子で、昭和9年春に出版された。『本田親徳研究』p475-483に抄出あり。484に解説、抄出あり。
# [[第一次大本事件]]の際に、霊学に関する問題について大審院から鑑定書を作成する委嘱があり、150日間を費やして作成し、昭和2年(1927年)3月10日、大審院に奉呈した。その一部分を記したものとして「惟神」(タイプ刷67頁の冊子。月見里神社附属講社顕神本会発行)がある。p469註一に説明あり。p487-511に内容紹介あり。
# 前記の「大本教事件ニ対スル意見」。p511-521に内容紹介あり。

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