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子供時代には[[王仁三郎]]と多少親交があり、後には大本関係の講演や執筆も依頼されて行っていた。 | 子供時代には[[王仁三郎]]と多少親交があり、後には大本関係の講演や執筆も依頼されて行っていた。 | ||
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* 昭和2年(1927年)4月29日、兵庫県城崎郡城崎町(現・豊岡市)で生まれる。小学生の時、京都の西陣に引っ越した<ref name="gendainoronri">『現代の論理』第8号 西村秀樹「皇国史観、差別に抗い、天皇や司馬遼太郎に大きな影響与えた~上田正昭」[Web上の記事 http://gendainoriron.jp/vol.08/serial/se01.php](上田正昭の最後のインタビューらしい)</ref>。 | * 昭和2年(1927年)4月29日、兵庫県城崎郡城崎町(現・豊岡市)で生まれる。小学生の時、京都の西陣に引っ越した<ref name="gendainoronri">『現代の論理』第8号 西村秀樹「皇国史観、差別に抗い、天皇や司馬遼太郎に大きな影響与えた~上田正昭」[Web上の記事 http://gendainoriron.jp/vol.08/serial/se01.php](上田正昭の最後のインタビューらしい)</ref>。 | ||
* 正昭の母親は、[[小幡神社]]の宮司([[上田正定]]?)と親しい友人だった。宮司が亡くなり、跡継ぎがいなかったため、正昭は母親に言われて上田家の養子になった。神主の資格を取るために国学院大学に入り(昭和19年)、そこで折口信夫と出会う。折口の影響で歴史を学ぶため京都大学に入った(昭和22年)。<ref name="nihontoiukuni_p12" /> | * 正昭の母親は、[[小幡神社]]の宮司([[上田正定]]?)と親しい友人だった。宮司が亡くなり、跡継ぎがいなかったため、正昭は母親に言われて上田家の養子になった。神主の資格を取るために国学院大学に入り(昭和19年)、そこで折口信夫と出会う。折口の影響で歴史を学ぶため京都大学に入った(昭和22年)。<ref name="nihontoiukuni_p12" /> | ||
+ | * 養子に入ったのは中学2年生の時で、宮司になったのは20歳の時(昭和22年)。<ref name="kokoro" /> | ||
* [[出口栄二]]とは昭和24年(1949年)頃から、学友として親交があった。<ref>『[[出口栄二選集]]』月報1 上田正昭「華甲再生」p4「著者とは一九四九(昭和二十四)年のころから、学友としての親交をつづけてきた」</ref> | * [[出口栄二]]とは昭和24年(1949年)頃から、学友として親交があった。<ref>『[[出口栄二選集]]』月報1 上田正昭「華甲再生」p4「著者とは一九四九(昭和二十四)年のころから、学友としての親交をつづけてきた」</ref> | ||
* 上田正昭は[[王仁三郎]]との会話を回顧して次のように語っている。「僕がまだ中学の二年生頃に穴太の小幡神社(亀岡市)へ行ったんです」「聖師は勉強したらアカンというのです。〝勉強なんかしたらアカン、お前は勉強したらな、穴太を飛び出して行く〟というんですわ。ではどうするかと聞くとね、〝村の役場でも勤めたらええわ〟と、こういう無責任なことをいう。僕は抵抗しとったんですけどね。〝僕は学問やる〟言ったら、〝そりゃしゃあないな〟というようなことだったけどもね。しかし、王仁三郎が言いたかったことがわかるような気もします」<ref>『[[出口栄二選集]] 第三巻』p143(出口栄二、上田正昭、梅原猛の3人による鼎談)</ref> | * 上田正昭は[[王仁三郎]]との会話を回顧して次のように語っている。「僕がまだ中学の二年生頃に穴太の小幡神社(亀岡市)へ行ったんです」「聖師は勉強したらアカンというのです。〝勉強なんかしたらアカン、お前は勉強したらな、穴太を飛び出して行く〟というんですわ。ではどうするかと聞くとね、〝村の役場でも勤めたらええわ〟と、こういう無責任なことをいう。僕は抵抗しとったんですけどね。〝僕は学問やる〟言ったら、〝そりゃしゃあないな〟というようなことだったけどもね。しかし、王仁三郎が言いたかったことがわかるような気もします」<ref>『[[出口栄二選集]] 第三巻』p143(出口栄二、上田正昭、梅原猛の3人による鼎談)</ref> |
2020年2月12日 (水) 20:38時点における版
上田正昭(うえだ まさあき、1927~2016年)は、歴史学者。小幡神社の第33代宮司[1]。京都大学名誉教授。専門は日本古代史。
子供時代には王仁三郎と多少親交があり、後には大本関係の講演や執筆も依頼されて行っていた。
- 西陣の織屋の次男。著名な織元の佐々木清七(1844~1908年)の曾孫。[2]
- 昭和2年(1927年)4月29日、兵庫県城崎郡城崎町(現・豊岡市)で生まれる。小学生の時、京都の西陣に引っ越した[3]。
- 正昭の母親は、小幡神社の宮司(上田正定?)と親しい友人だった。宮司が亡くなり、跡継ぎがいなかったため、正昭は母親に言われて上田家の養子になった。神主の資格を取るために国学院大学に入り(昭和19年)、そこで折口信夫と出会う。折口の影響で歴史を学ぶため京都大学に入った(昭和22年)。[2]
- 養子に入ったのは中学2年生の時で、宮司になったのは20歳の時(昭和22年)。[1]
- 出口栄二とは昭和24年(1949年)頃から、学友として親交があった。[4]
- 上田正昭は王仁三郎との会話を回顧して次のように語っている。「僕がまだ中学の二年生頃に穴太の小幡神社(亀岡市)へ行ったんです」「聖師は勉強したらアカンというのです。〝勉強なんかしたらアカン、お前は勉強したらな、穴太を飛び出して行く〟というんですわ。ではどうするかと聞くとね、〝村の役場でも勤めたらええわ〟と、こういう無責任なことをいう。僕は抵抗しとったんですけどね。〝僕は学問やる〟言ったら、〝そりゃしゃあないな〟というようなことだったけどもね。しかし、王仁三郎が言いたかったことがわかるような気もします」[5]
- 平成28年(2016年)3月13日、亀岡の自宅で[3]死去。88歳。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 鎮守の森はよみがえる(平成14年(2002年)2月10日放送、NHK教育テレビ「こころの時代」、上田正昭のインタビューを文字起こししたもの):「私は京都の西陣の織り屋の息子なんですね。此処の上田家というのは、先程ご紹介頂きましたように、『延喜式』に載っている古いお宮なんです。私で、三十三代目になるんです。ところが、先代で、継承者が居なくなったものですから、ちょうど私の母と、こちらの先代と親しかったものですから、中学二年生の時に、こちらを継ぐことになりました。ほんとは外交官になりたかったんですけれども、早く神主の資格を取らなければならない、というので、國學院の方へ行きまして、國學院大學を出て、京都大学に進んだわけです。ですから、宮司になったのは、ちょうど二十歳の時で、昭和二十二年(一九四七年)ですから、五十五年ということになりますね」
- ↑ 2.0 2.1 梅原猛・上田正昭『「日本」という国』2001年、大和書房、p12:「実は、私はもともとは京都西陣の織屋の息子なんです。明治維新のときに西陣は非常に衰微しますが、私の曾祖父、佐々木清七は、初代の織物組合長で、明治二年に民間でジャカードなどを入れた。明治五年にフランスへ行った佐倉常七さんは、後に私のところの番頭になっています。そういう織屋の次男に生まれました。亀岡の上田という延喜式内社の先代が亡くなり、跡継ぎが必要になったので、私は何もわからないまま、母にとにかく上田家を継いでくれといわれました。私の母と上田家の先代とが親しい友人だったのです。(略)そんなことで上田家を継いだのですが、早く神主の資格を取らなけれぽいけない。そこで国学院へ行くことになるんですよ。 国学院で折口信夫先生に出会う。実は折口先生から「君の学者としての将来を保証するから」と言われましてね。 藤井春洋さんという方が先生の跡継ぎとして折口家に入られたのですが、硫黄島で戦死されたので、白羽の矢が私に立ったんですね。(略)それで、えらいことになったと京大を受験して京都大学に入る」
- ↑ 3.0 3.1 『現代の論理』第8号 西村秀樹「皇国史観、差別に抗い、天皇や司馬遼太郎に大きな影響与えた~上田正昭」[Web上の記事 http://gendainoriron.jp/vol.08/serial/se01.php](上田正昭の最後のインタビューらしい)
- ↑ 『出口栄二選集』月報1 上田正昭「華甲再生」p4「著者とは一九四九(昭和二十四)年のころから、学友としての親交をつづけてきた」
- ↑ 『出口栄二選集 第三巻』p143(出口栄二、上田正昭、梅原猛の3人による鼎談)
関連項目
外部リンク
- 上田正昭 - コトバンク、上田正昭 - ウィキペディア
- 佐々木清七 - コトバンク:上田正昭の曾祖父。