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2019年8月26日 (月) 02:26時点における版
岡本秀月(おかもと しゅうげつ)とは、大元教の創始者。呼称は「教主」。本名は岡本英一(えいいち)。
明治43年(1910年)5月23日生まれ、平成22年(2010年)2月13日帰幽(99歳)[1]。
岡本則一(警察勤務)・てる尾の第六男として亀岡市で生まれる。父母の大本入信により、秀月も幼少時に入信。高等小学校卒業後、天恩郷で王仁三郎の側近として奉仕する。
第二次大本事件以後、京都で王仁三郎の顕彰会を設立。商事会社に勤務。
昭和28年(1953年)知人を頼り岡山県笠岡に転居。
昭和30年(1955年)10月(旧9月8日[2])より、王仁三郎の神示をたびたび受けるようになり、その頃から参拝者が集まって来る。
昭和33年(1958年)笠岡市神島で「潮満つ宝珠」を天から授かり、広島県の山奥で「紫宝珠」を授かる。翌年には岡山県赤磐郡の山頂で「潮干る宝珠」を授かった。神勅によりこの三つの宝珠を三種宝とする。
この三つの宝珠が揃った後、「聖主台神事」(神懸かり)が始まるようになる。
大元教の開教日は不明。昭和43年(1968年)に宗教法人となる。
昭和43年(1968年)に世界思想立直しのため、エルサレム・ローマを巡拝。このとき王仁三郎の形見の品がエルサレムに埋めるという神事が行われた。
大本神業を直接継承することを目指して展開する。
参考文献
井上順孝・他編『新宗教事典』弘文堂、1990年(p739「大元教」の項、p844「岡本秀月」の項)