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出口王仁三郎

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「王仁三郎」の名の由来
* 明治37年(1904年)9月20日、町役場に改名届を出し、戸籍上「上田王仁三郎」になる。
** 王仁三郎は上田家の戸主なので改姓は出来なかった。弟の[[上田幸吉|幸吉]]が明治43年11月1日に上田家の戸主になったので、その後「出口」に改姓した。
** この当時でも改名は余程の理由がなければ出来なかった。王仁三郎は理由として──当時穴太の上田嘉市の息子が喜三郎という名前で、狭い穴太に上田喜三郎が二人いると郵便の誤配など混乱が生じる──ということを改名理由にした。王仁三郎は[[中村竹吉]]と[[四方平蔵]]に命じて役場に改名届を出させたが、この時二人は悪意から「王仁三郎」ではなく「鬼三郎」と届を出した。そのため短い期間だが、法的に「上田鬼三郎」だった時期がある。<ref>みいづ舎版『大地の母 第八巻』「みいづ舎版『[[大地の母]] 第八巻』「{{obc|B138908c10|北桑田宣教}}」p250-251</ref> <ref>回顧歌集『[[百千鳥]]』(昭和52年、天声社)380頁「実名王仁三郎」の項にそれに関連した歌が記されている。中村竹吉や四方平蔵は「古谷」「松原」という仮名(どちらがどちらなのかは不明)で記されている。〈曽我部役場に古谷松原は鬼三郎と改名とどけ差出しにけり〉〈海潮は悪神なれば鬼といふ文字が適すと人に語りをり〉他。</ref>
* 明治43年(1910年)12月29日、出口家への養子の手続きが終わり、戸籍上「出口王仁三郎」になる。
* 明治45年(1912年)2月21日、出口家の戸主となり家督相続する。

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